■2か月まえに「「ムダ」とは なにか? 5」をかいたが、その後、近代スポーツという巨大な社会現象を、ひややかに検討する作業を「「たかがスポーツ」のはずが」「スポーツ中継とテレビの本質」という文章でかいた。これも、一種の「ムダ論」といえるだろう〔ムダ論以外で、日本社会論としてのスポーツ談義は、「スポーツからみた日本社会1」?「スポーツからみた日本社会12」〕。■今回は、その続編。


荒川選手育てたリンク、取り壊しの危機 経営難で閉鎖
2006年03月01日19時39分
【『朝日新聞』asahi.com】

 トリノ冬季五輪の女子フィギュアで金メダルを取った荒川静香選手(24)が育った仙台市のスケートリンクが、取り壊しの危機を迎えている。04年12月に経営難のため閉鎖され、荒川選手を育てたコーチや有望な若手選手らは練習できる環境を求めて今春、名古屋市に本拠を移す。リンク再開のための支援を求める声は1日の宮城県議会でも取り上げられたが、村井嘉浩知事は「財政的支援は難しい」と答弁した。

 荒川選手は6歳から18歳まで、仙台市泉区の泉FSA(フィギュア・スケーティング・アカデミー)に所属。このクラブから荒川選手や本田武史選手ら計4人の五輪フィギュア選手が育った。

 しかし、荒川選手らが練習した同区のリンクは、04年12月に経営難のため閉鎖。スケート選手の父母ら関係者が「宮城スケート競技を考える会」を立ち上げ、存続を求めて署名活動を行ったが閉鎖は免れなかった。

 リンクが入っているビルを所有・管理する三井不動産は、取り壊しを検討している。

 1日の県議会では、泉区選出の県議が「ぜひ存続させるべきだと思う。管理会社に存続を要請する考えはないか」と質問。村井知事は「存続する道が残されていれば、関係方面に働きかけていきたい。財政支援は難しいが存続するのなら側面的支援をしていきたい」と述べるにとどめた。

 宮城県内にほかに通年リンクが1カ所あるが、アイスホッケーの練習が中心で、フィギュアの練習は十分にできない。荒川選手を育てた長久保裕コーチ(59)は、有望な小学生らとともに今春から名古屋に移る。「練習場が確保できれば私も県内に残りたい」とリンクの再開を訴えており、この日も傍聴に訪れた。「このままでは静香も将来コーチとして戻ってこられない。静香に申し訳ない気持ちだ」と話した。

 荒川選手も、金メダルを取った後のトリノでの会見で、「私が練習を続けてきた仙台のリンクも閉鎖されて、小さい子が苦労している。一つのリンクに人が集まりすぎて、私も日本で練習時間を探すのが難しい」と話している。

 また、小泉首相は1日、荒川選手の金メダル獲得を報告しに官邸を訪れた小坂文科相に対し、冬季五輪をめざす選手たちの練習施設に対する支援策などを検討するよう指示した。

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■オリンピック/プロ・サッカー/日米のプロスポーツ興行などが、巨大なムダであることは、ほぼまちがいないが、「人気投票」という意味での「ブランド」がもつ、「集客能力」「集金能力」という点では、巨大産業というほかなく、ムダだと1万回となえたところで、うねりがやむはずがない(笑)。まさに、「とどめようがない」という、一種の戦争とか、資本主義とか、そういった、壮大な運動にほかならないわけだ。■しかし、それほどの「ブランド」ではなく、世界大会など、非日常的な興行のときだけスポットがあたる競技は、たくさんある。いや、非日常的な興行のときだけでも、一応スポットがあたるのは、興行として制度化し、成功しているというべきであろう。■冬季オリンピック種目の大半はそうだろう。だからこそ、実質的にプロ選手ではあっても、それは、ツアー賞金による選手生活と現役引退後の維持ということは、ハナからありえず、企業の広告塔とか、実業団選手の変種として企業や行政機関などをスポンサーにして、選手生活をつづける層が、ぶあつくいるわけだ。

■さて、今回の、スケート選手育成の「育苗空間」ともいうべき「リンク」の閉鎖騒動だが、行政当局が「財政的支援は難しい」と答弁することは、ホントに、なさけないはなしで、政府が「支援策などを検討するよう指示」するのが当然の問題なのだろうか? ■これは、到底、「当然」なんていえないとおもう。
■?公的な財源を注入=テコいれしなきゃいけないってことは、市民が「観戦したい」、「カネはらっても放送してほしい」、「その一環として一流選手の競技生活を援助するスポンサーに、間接的になってもいい」といった、社会的合意が暗黙のうちにできてはいない、ってことだ。■プロ野球や大相撲なんぞは、こういった条件を全部みたしているが、たとえば、冬季五輪のカーリングなどは、すくなくとも日本や赤道付近の国家群などでは絶対に、ツアープロはうまれないだろう本質をもっているとおもわれる。■こういった、市場原理がかってにささえる競技群ではないオリンピック種目について、「すそのをひろげて、将来のメダリストを育成する財政支出をする」という決断は、ほかの福祉・教育・インフラ整備事業などよりも、優先順位がたかいという、説明責任をおっている。■なぜなら、市場原理以外の公的な助成は、税金であって、あきらかに、社会的な優先順位という激烈な序列化にたえるだけの、倫理性をもとめられるからだ。■「フィギュアスケートの、氷上の舞に感動した」。そういった個人的な感想は、かってだが、それで税金投入となると、はなしは別だ。選挙や議会での討論とか、必要なてつづきをへないかぎり、到底正当化できる拠出ではない。
■?あるオリンピック種目について、「すそのをひろげて、将来のメダリストを育成する財政支出をする」という決断は、それが、伝統であるとか、将来のみとおしであるとか、国家像であるといったものとして、討論されるとしても、それが冷静客観的なものとなる可能性は、ひくいとかんがえられる。■なぜなら、市場原理による「人気投票」=自生的な「ブランド」形成でない以上、「どれを選択するか」、「どのように配分するか」という判断に、客観的な判定ができるはずがないからだ。■学術的・教育的拠出、福祉的拠出さえも、優先順位がきめかねるのだ。きめかねるから、利害団体および族議員のおもわくを反映した、予算獲得合戦を、財務省などを軸とした省庁の微視的な「調整作業」という巨大な政治労働の結果、公正とはいいがたいような財政拠出がくりかえされてきたわけだ。■なんで、スポーツ振興の一環として、具体的な種目の選手育成に、合理的でモンクがあまりでないような、「配分」が可能なのか? ■前近代の王国でもないのに、大衆社会の国民が、基本的に同意するような「配分」など、ありえない。まして、スポーツ振興のどこに、ありえるのか?
■?古典音楽や舞踊、そしてスポーツなどもそうだが、選手がそだっていくときに、出身家庭が個人的に「犠牲」としかいいようのない金銭的・時間的・精神的肉体的援助をともなうことは、よくしられている。荒川選手はもちろん、スピード・スケートの清水選手なども有名だ。■こういった天才たちには、「協会」などスポーツ振興組織や企業など、さまざまな助成・スポンサーなどが援助にくわわるが、それ以上の公的拠出が正当化される根拠はどこにあるのだろうか?■歌舞伎や能楽・狂言、落語ほか、さまざまな古典芸能の伝承があり、一方で日本舞踊茶道華道書道、古武術といった、「家元」制度による文化資本の継承がくりかえされているが、これらへの公的助成は、それこそ「恣意的」であり、不平等そのものだろう。■市場原理にまかせて、放置しておいてよい伝承と、公的助成を積極的につづけなければならない価値をもつ伝承の区別など、できるはずがない。■そんななか、特定のスポーツが、たまたまメダルがとれたとか、国威発揚によさそうだとか、そういった安易な理由で、ときの政治家が人気とりに利用するのは、はなはだけしからんし、財政の公的性格にも、もとる「反則」行為といえないか? ■そして、「一流選手をうみだすために、周囲がはらった犠牲の集積」という、悲喜劇は、基本的に放置すべき「酔狂」なのではないか?


■古典バレエのダンサーで、熊川哲也とか吉田都レベルの人材が、日本人からもでたからといって、小澤征爾のような世界的指揮者がうまれたからといって、「第二の熊川・吉田・小澤らを継続的に輩出するよう、おおはばなテコいれをすべきだ」といった発想は、はなはだ欧米的である。■これは、理系・文系のの技術者・研究者が、「個人的に そだっていく」のであって、政府が援助している部分など、ごくわずかでしかない、という現実とのバランスをとるために、真剣に考慮されるべきだ。■軍事技術はともかく、民生品・福利厚生の向上のために、日々研鑽をつみかさねる技術者などは、国家的な援助をもって育成すべきだが、基本的に放置、民間企業と個人の努力の結晶こそ、たとえば「技能オリンピック」出場の技能工であり、かれらと協力体制にあるエンジニアたちなのだ。■それらを、文部科学省やその政策の一部である「スーパーサイエンスハイスクール」構想などがみたしてるというのは、幻想だ。■ちなみに、「スーパーサイエンスハイスクール」への拠出は、今年度、たった13億円強にすぎない。■対照的に、「世界で活躍するトップレベル競技者の育成」には、72億円もの予算があてられている。「生涯スポーツ社会の実現」には、24億円しか投入されていないが、それは厚生労働省の管轄だからか?■要は、エリートでない市民には、膨大な人口に、ひとりあたま20円ぐらいしか還元しないが、エリート選手には、それがかりに1000人であっても、ひとりあたり720万もの予算がしはらわれる。■そして、同様にエリート予備軍だろう「スーパーサイエンスハイスクール」の生徒さんたちには、さしたる強化策はする気がないらしい。まあ、エリート教育は、いろいろ問題あるしね。
■理科系の「オーバードクター」は深刻な問題だし、法律家養成制度だって問題山積なのだ。■なぜ「「たかがスポーツ」のはずが」国策・国益問題になり、一応「エリート」とされている、研究者・専門家のタマゴは、放置されていいのだろう。
■いや、正真正銘の「プロの研究者」というべき、大学院大学の先生だって、国立大学の個人研究費は、学会出張などの旅費だって充分でなくて、日本学術振興会の「科学研究費補助金」をとらないと、満足に移動もできないという、はなしをみみにしたことがある。■「旧帝国大学や旧官立大学などの有力国立大学を中心に交付されており、私立大学は国立大学に比べ教員数も学生数も多く、特に学生数においては5倍近いが、交付額は少ない。例えば2003年度交付状況を見ると、71.2パーセントが国立大学に交付されている一方、私立大学への交付は13.7パーセントであり、これを国立偏重であるとする見方がある」らしいけど、こと人文・社会系の国立大学の先生は、「カミとエンピツとパソコンで、しごとは充分でしょ?」と、予算を充分にもらえない悲哀をあじわっているわけで、東大の理科系あたりが、ロケットやらで、巨大な「カネくいムシ」であろうとも、教授さまがたの研究生活がゆたかというわけではなさそうだ。■まして、「研究」を法令上規定されていない高専あたりともなれば、中堅エンジニア養成さえ、適当にって予算配分になるんだろう。

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