■あいかわらず、笹原宏之『日本の漢字』(岩波新書)の内容紹介とコメントのシリーズの「つづき」。
前回は、字形・字音・字義の関係性のなかで、字形に対する字音の多様性(要は、複数のヨミの共存)をとりあげたが、今回は 字形に対する字義の多様性、それと慣用よみの問題。
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 字義についても、日本で派生、発生したものが加わっているので、一字多義はむしろ当然のこととなっている、「生」など、実にたくさんの和語が当てはめられてきた。漢字に訓読みをもたせること自体は、朝鮮でも古代には見られ、ベトナムでもチュノム(字喃)とよばれる文字の一部には行われたことであったが、今日では、中国語の方言にいくらかみられるくらいである。体系的な訓読みは日本にだけ残る方法といえる。外国の文字に対して、自国語の読みを訓として定着させた文字体系も、世界の中では珍しい。
〔p.10〕
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■「漢字に訓読みをもたせること自体は、……今日では、中国の方言にいくらかみられるくらいである」という指摘は、データをもちあわせていないので、あくまで仮説的にだが、非常に重要な意味をもっているとおもう。
■?まず、全然別の体系用にくまれたモジ体系に、自言語を対応させるという手法のうち、外来語的なあつかいのままの「音よみ」は、たとえば かながき/カナガキが定着すれば、吸収されて みえなくなってしまう現象にすぎない。■ところが、「訓よみ」となれば、現に「かながき」が実践されていて、要は、漢字がきするかどうかは、趣味の次元に属する問題にすぎないものなのに、あえて 漢字がきがえらばれているという社会言語学的現実である。
■?「中国語方言」というのは、はなはだ あいまいな記述である。なぜなら、「中国の方言」という分類のなかには、広東語福建語のように、下位区分を無視すれば数千万人の話者をかかえ、しかも、別体系の「声調」や「方言字」をそなえるなど、しばしば巨大な実質的別言語がふくまれるからだ。
■?しかし、これらを とりあえず度外視するなら、いまどき、他言語のモジ体系を「訓よみ」式に利用している国家など ない、ということだ。

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 訓をもつために、逆に一つの読みに複数の漢字が存在することがある。たとえば、「はかる」には「量る」「計る」をはじめ、様々な漢字が準備されている。「もの」には「物」と「者」とが書き分けられ、「とり」も「鳥」のほかに、にわとりに限って「鶏」とかいたり、干支などでは「酉」と書いたりする。これらは、国語辞典などを編纂する際には、互いに別々の語と認めて「同訓異義字」と見るべきか、同じ語の細かな違いを書き分けているだけなのかが問題となる。
〔p.10〕
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■「様々な漢字が準備されている」っていうけど、「準備」ってのは、あくまでも あらかじめ 用意しているってことであって、古代中国語対応の漢文用表記である漢字が、体系として「あらかじめ 用意している」なんてことは、ありえない。■あくまでも、日本列島在住の知識層が必死に、漢字語のなかから、対応しそうな「字義」体系を整備してきた伝統にすぎないとおもう。■でもって、ハラナのような層にとっては、「量る」「計る」なんて かきわけは、全然ピンとこないし、必要性なんて カケラも感じない。■たとえばさ、「記録を計測する」っていう領域で「はかる」ときは、「計る」と「測る」のどっちで、「体重の計量」のばいは、「計る」「量る」のどっちがえらばれるの?
■「とり」という日本語概念に一般的に対応する字形が「鳥」であり、その特殊形が「鶏」であるというのは、一応ゆるされるだろうが、「鶏」は、「にわとり」ないし「ケー」って、聴覚イメージと結合しているはず。■また、「えと」の「酉」は、「えと」でしかでてこないんで、これを普通の「とり」概念でくくるのは、どうだろう。■したがって、「同訓意義字」かどうかなんて問題なんだろうか? ■「もの」を「者/物」とかきわけているけど、ヤマトことばとしては 当然同一語であるとかは、かげ(影/陰)、たま(玉/弾/球/珠)など、おびただしく 類例があげられる。

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 また、新しい熟語を造る際に、その読みが音・訓のどちらかに揃えられなかった場合には、「重箱〔じゅうばこ〕読み」とか「湯桶〔ゆとう〕読み」といって蔑視されることもあったが、これも日本独自の文字意識である。熟語単位の訓読みは「熟字訓」と呼ばれるが、その中には「和泉」の「和」、「大和」の「大」のように読みと関わらない黙字があったり、「似而非〔えせ〕」「八月一日〔ほづみ〕のように漢字の数の方が仮名よりも多いものがある。「不忍池〔しのばずのいけ〕」「親不知〔おやしらず〕」のように、漢語めかした字の順をもつものもある。「無墓〔はかな〕や(果無い・儚い)」
(『好色一代女』巻三)は、そもそも当て字でありながらやはり漢語のような字の順となっている。
〔pp.10-1〕
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■「重箱よみ」だの「湯桶よみ」が蔑視されたとかいうのは、たとえばヨーロッパの知識人のあいだでの、「混成語
〔hybrid,たとえば sociology < socius+logos(ラテン語+ギリシャ語)〕」差別などとにてみえるが、かなりちがうようにおもう。■「重箱」「湯桶」なんて、蔑視していた知識人自体が さけられっこないし、庶民にいたっては 音訓の識別自体があいまいだっただろう。■ヨーロッパの「混成語」蔑視は、知識層のなかでの、イヤミなツッコミ合戦だしね。“sociology”ぐらいならともかく、欧米の高級語の大半は、大卒者でさえ「みききしたことさえない」っていうぐらい、文化資本の階級差がおおきいようだし、語源意識の有無の差別が生じている空間がちがう。■ましてや、現代日本人のばあい、音訓の識別は、かなりマニアックな知識にかわりつつあるだろう。「現場/工場」が 「ゲンバ/コーバ とよめば 重箱よみ」で、「ゲンジョー/コージョー なら 音よみ」なんて、いちいち認識している層は例外的なはず。
■それはともかく、古典文献学のマニアックな知識にすぎない『好色一代女』の用法なんてのは、正直どうでもいいが、熟字訓ってのは、おもしろがっているばあいじゃない、ヤッカイな存在だ。■こういったものが、固有名詞を中心に整理されないでのこっているというのは、社会言語学的な「社会的事実」ではあるけど、放置して当然の「伝統」とは、到底いえないだろう。■そんなことをいったら、公私のさまざまな時空にのこる、バリアフリーの課題とか、セクハラ・パワハラなど、さまざまな問題群が 「それも日本社会の現実」で、おわってしまうのと、同質のような次元でね。■これは、冗談で強引なこじつけをもちだしているのではない。「日本と英国は、伝統遵守の国柄なので、正書法も敬意表現も、未分差も、みな継承すべき美風だ」といった、時代錯誤の保守主義と連続する論理と「せなかあわせ」だよということ。

■それにしても、「和泉」の「和」が、地名の2字漢字表記化にともなう 黙字であるという経緯はしっていたが、「大和」の「大」も黙字であることは、うっかり みすごしていた。いわれてみれば、「やまと」という ヨミが あてがわれているのは、あきらかに「和」だね。てっきり、「似而非〔えせ〕」「八月一日〔ほづみ〕」のたぐいかと、おもいこんできた。■ま、現代日本人の漢字表記に対する語源意識なんて、こんなもんじゃない?
【まだ、まだつづく(笑)】



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