前回もふれたとおり、笹原氏が こまやかに ひろいあげる「国字」のうち、興味ぶかいのは、僧侶や学生などが、速記がわりに自分だけにわかればよいと「開発」した「造字」など、「省力化」の かずかずである〔pp.26-32,44〕

■興味ぶかいのは、「一時的に読めれば、後でも清書できる。メモであれば、自分さえ読めれば困らない〔p.44〕ような性格である以上、かなりデタラメなはずなのに、実は そこに「秩序」「合理性」がみてとれるのである。
■「メモであれば、自分さえ読めれば困らない」というが、「一時的に読めれば、後でも清書できる」という意識がはたらくかぎり、これは逆にいえば、一定時期経過すれば「自分さえ読め」ない、「清書でき」ないような、当座かぎりの 乱雑さをかねそなえているはずである。■しかし、実際には、そこに 使用者間の あきらかな共通性というか、暗黙の 共通した略記が成立しているのである。つまり、一定時期経過すれば「自分さえ読め」ない、「清書でき」ないような、当座かぎりの しろものなどではなく、同類の識字層が あとで よみかえしたときに、充分判読できるというか、近現代であれば、辞書への正式登録はともかく、活字化する可能性さえもつような「体系性」をそなえてしまうことになる。■実際、その相当数が、活字化してしまうそうだ。
■めぼしいものだけあげても、
■?「崩し字がそのまま楷書となったもの」:「晝」→「昼」,「盡」→「尽」,「しんにょう」,「こざと偏」「おおざと」「手偏」「立心偏」「肉(にくづき)」など〔pp.27-8〕。
■?画数の省略の例:「國」→「国」,「會」→「会」,「黨」→「党」,「賣」→「売」,「畫」→「画」,「廣」→「広」,「圓」→「円」〔pp.21-2,25,31,48-55〕
■?同音別字による代行:「齢」→「令」,「歳」→「才」
■?漢字の一部だけで代行してしまう例:「箇」→「ヶ」〔pp.21-2〕
■?漢字の一部だけでオトをカタカナで代行してしまう例:「薬」→「くさかんむり+ム」,
■?「理解しやすくするための変形」:「涙」→「泪」など〔p.34〕

■ほかにも、一般に「国字」にはふくまれないが、
■?「文字体系そのものを交替させる」手法:「?右衛門」→「?ヱ門」「エ門」,「テレビ」→「TV」,「センチメートル」→「cm」,「お電話下さい」→「おTelください」〔p.27〕
■?カタカナによる代行:「会ギ(←議)」「事ム(←務)所」「中の(←野)」〔p.28〕
■?「記号を使う」:「逓信省」(→「テ」「T」)→「〒」(「郵政(省)」「郵便番号」「郵郵送料」……),「△丁目○番地」→「△-○」など〔pp.29-30〕
■?「書体を変えること、節約を図る」手法:「候」→「ゝ」など〔p.27〕 

■これらに つらぬかれているカラクリは、「よく使う字は省略される」という かなり普遍的な法則性である。
■それにしても、「俗字/正字」などと、よくいわれるが、正典とみなされる『康熙字典』の「見出し語とされる字体にさえ、「いわゆる康熙字典体」とは相反する字体も含まれている」し、「戦前の活字はすべて康熙字典体を用いていた、というのは一種の幻想に過ぎない。まして、戦前に、康熙字典体に準じる字体だけを手で書いていたという人は、ほとんどいなかった」〔p.24〕という断言には、迫力がある。■「我々は正字正假名遣ひを堅持す」といった主張が、よってたつ基盤の、なんとモロいことか。……

■「正しき日本文化を守る義務」をもって任ずる層こそ、本書を熟読すべきであろう。


【つづく】

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