■優位にたつものたちが、劣勢にたったと誤解して、急に「二重の基準」をもちだすのは、卑劣そのものなのだが、これは、人間存在の「さが(宿業)」として、ほとんどさけられないのかもしれない。■もととも、自分にブレがなく、自信をもって毎日をおくっているのなら、自分より相対的に劣位にあるとされる存在をつくりあげて、蔑視するとか搾取して正当化するとか、そういった あさましい発想など、うかびようがないのである。
■要は、自分に自信がもてず、周囲に対して相対的優位にあるという主観的な確認作業をくりかえさないと、不安で不安でたまらないような、そういった連中(=人間存在のほとんどかもしれないが)が、みぐるしくも「二重の基準」などをもちだして、「やっぱり、われわれがエラい」などと、必死に状況のリセットをはかっていると。

■それはともかく、「悪貨は良貨を駆逐する」式の自虐史観=「二重の基準」をもちだすのは、かなり重要な問題をかかえこんでいるからである。■それは、「よわさ」の二重性なのだ。
■新自由主義をはじめとした、イケイケ路線や、19世紀的な帝国主義の哲学は、「よわさ」の否定である。「つよい=よい」という世界観で一貫していて、実に単純で、一見矛盾がない。■しかし、こういった「つよき一辺倒」で たちいかなくなると、前回のべたとおり、「よわい=うつくしい」と、急に、てのひらをかえすのだが、そこには、実は 一片の真理がふくまれているのだ。「二重の基準」さえふりまわさなければ、それなりに一貫した美学として。
■それは、「よわいのは、あらそわず ゆずるという、精神のユトリ=たかみにあるのだ」とか、「よわくありながら、そこにありつづけるのは、かえがたいものとして、天がまもっているのだ(えらびとったのだ)」という、ネジレた美学である。■これは、イジメの対象として攻撃をうけている人物が、自己防衛としてもちだすものと、基本的論理はおなじだ。■「自分は、あいてが低劣な人格ゆえに、イジメという卑劣な行為をくりかえすほかない、あわれな依存症患者たちだと、よくわかっている。そして、そういった みじめな精神がくりだす攻撃をユトリでうけとめる横綱相撲をおこなっている。この えがおでうけながすという行為は、貧困な精神の救済であり、高貴な営為なのである。……」といった、非常に曲芸的なヘリクツである。■客観的に、第一に「みじめ」な存在は 自分自身であるという現実は、うごかせない。アリ地獄/どろぬまから ぬけだせないのは、ほかならぬ自分であり、それを直視しないで、「自分は、比較にならない高貴な存在」という位置づけは、矛盾・破綻している。■しかし、本人は、「アリ地獄/どろぬまから ぬけだせないのは、ほかならぬ自分」といった現実を直視することは、あまりにたえがたいのだ。直視したところで、事態に まったく改善の可能性がみえてこないのだから、超越論的な「つよがり」が かかせないのだ。「天にえらびぬかれた自分は、この試練をユトリでしのぐように命ぜられている」といった倒錯的だが、主観的には超越論的な、客観的には曲芸的なヘリクツで、現状を合理化するのだ。■このヘンのカラクリについては、心理学者の岸田秀氏が『嫉妬の時代』で、冷酷ともいえる明解な分析を展開していることと、かさなる。
■こういった心理メカニズム=防衛機制は、ニーチェによるルサンチマン概念と、ほぼかぶさるといってもよい。■しかし、こういった「つよがりの美学」は、ニーチェが非難したキリスト教思想だけにとどまるものではなく、おそらく人類に普遍的な感情といえる。
■問題は、こういった防衛機制を社会的優位にあるものが、悪用して、「逆差別」に援用するカラクリだ。■それは、単に「劣位にまわった」という誤解とか、イジワルな搾取なのだろうか?
■いや、そうではないだろう。「よわい=うつくしい」という、ネジレた価値観には、実は、貴族制や王権をささえる論理と、かさなるものがあるのだ。■機能的合理性から「有用である」と立証する責任をおわず、「よわくありながら、そこにありつづけるのは、かえがたいものとして、天がまもっているのだ(えらびとったのだ)」という論理で、「よわさ」が合理化される存在こそ、貴族制・王権の秘密なのだ。■機能的合理性から「有用である」と立証する責任をおわされるブルジョア社会は、理念上世襲をみとめない(ジュニアが地位を継承できるのは、「名君」であるからということになっている)が、貴族制・王権は血統だけで、「かけがえのない存在」とされる。天皇家をふくめた世界の王家の権威は機能的合理性を意識的に否定したところに成立しているのだ。■昭和天皇ヒロヒトは大元帥だったが、前線で戦死覚悟の奮闘は想定していなかったはずだ。かりに「本土決戦」にいたっていても、逃亡・亡命をはかったいたにちがいない。■現在の天皇や皇太子であれば一層、日本軍の頂点にたつことは、まずありえない。それは、完全に軍国主義的に改憲されてもである。
■このように、機能的合理性という観点で「できる」「つよい」といった「有用性」の証明を、あらかじめ回避した、いいかえると免除が自明視されている存在を、王党派のひとびとは、想定するほかないのだ。
■もちろん、王の高齢化によって王権がゆらぐのをふせぐために、ころしてしまい、新王をすえるといった、風習をもつ古代国家もあったらしい。しかし、すくなくとも 王妃や王子・王女に、戦闘で陣頭指揮をとれといった国家は一度もなかったはずだ。■あたりまえとおもってはならない。「機能的合理性」の次元から「有用性」を要求されたら、王妃・王子・王女もふくめて、戦士でなければなるまい。■そうかんがえれば、日本国憲法への以降を必要とせずに、昭和天皇ヒロヒトは「無用の用」を象徴していたはずなのだ。万一、大日本国憲法が廃棄されていなくても。極論すれば王は無力でよい。大戦中のアメリカの最高指導者フランクリン・ルーズベルトが、重度の身体障碍者で充分だったように。■最高指導者は、王国だけでなく、共和制でも戦闘最前線にたつことは、もとめられないのだ。
■そして、王自身が最強であることをもとめられず、むしろ「無用の用」であることを自明視されるところに、王政があるのは、王妃・王女が、まったく戦闘むきでないことへと、つながる。いや、王妃・王女は戦闘はもちろん、あらゆる肉体労働から隔絶された空間に保護されねばならない。■いいかえると、「高貴な存在」を、あらゆる苦役/リスクから 完全に隔絶された空間に保護するユトリを誇示することこそ、国家の威信だということでもある。
■19世紀のブルジョアたちが 黒服にみをかため、社交界できかざった妻や娘のはなやかさを誇示したというのも、構図は同一だろう。かれらは、おのが機能的合理性を証明するために、「無用の用」としての肉体労働力として無能な「よわい=うつくしい貴婦人」を誇示する必要があり、はなやかなドレス・化粧・長髪をひきたたせるための「くろい額縁/背景」たるために、黒服=略式服を定番化したのだった。


【つづく】
【シリーズ記事】
差別論ノート」「」「」「」「」「」「」「」「」「」「10」「11」「12」「13」「14」「15」「16」「差別論ノート17:「ムダ」とは なにか?7」「18」「19