笹原宏之氏が、経済原理(省力化/単純化)がもたらした、歴史上の多様性にあくなき好奇心をいだくのは理解できる。■しかし、「共通誤字」とか「誤って覚えた漢字」といった分類が、無自覚な規範主義によるものであるといった問題は、以外に深刻な気もする。要は、多様性がもたらされた経緯を整理するうえで、どうしても正誤といった価値判断がまぎれこみ、多様な事実をただ事実として淡々と記述するといった態度には終始できないという、研究者の典型的なありようをしめしているとおもわれるからだ。■もちろん、社会生活にてらして、あきらかな非合理であったり、はた迷惑な要素も、「事実をただ事実として淡々と記述」すべきだなどとはいわない。しかし、多様性の原因を特定する際に、機能主義的判断以外に、正統性問題がまぎれこむと、読者に対しては、結局、正誤がはっきりくだせるかのような誤解をあたえかねないのである。

■今回とりあげるのは、「区別のための変形〔p.35〕と笹原氏が肯定的にとらえている
〔とおもわれる〕分類についての記述をとりあげる。
 漢字は、点画が入り組んでいるものの、その構造には規則性があるため、全く別個に造られた漢字であっても、“他人の空似”を起こすことが少なくない。「開」と「閉」が似通っていることは、エレベーター内で咄嗟〔とっさ〕にボタンを押そうとする時に感じられないであろうか。「王」と「玉」は篆書ではともに点はなかったが、隷書になると互いに字体が似てしまったために、「ギョク」の方に点を加えることで両字の区別が保たれた、「土」にも点が加わった……が姓などに見られることがあるが、これも「士」との差をより目立つようにするためのものであった。
 文字同士の衝突を回避するために、弁別の機能をもつ点画を増すことは、ローマ字にも起こっていた。……「0」を「0〔に斜線:ハラナ〕」とするのは、「O」と、区別が明確になるように
……
〔p.35〕
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■笹原氏が主張していることは、漢字にかぎらず、肉筆作業の省力化=省略・変形といった作用以外に、識別目的=衝突/誤解回避のために、画数がふえる事例が意外におおいということだ。■しかも、それは国字
和製漢字だけでなく、「本家本元」でも、そして、漢字文化圏以外でもごく普通にくりかえされてきたくふう=現象にすぎなかった。
■こういった、経済原理(肉筆作業の省力化=省略・変形)をうらぎるような一見意外な現象にめくばりをされる笹原氏には敬意を表するが、こういった多様性の出現を機能的合理性として、よしとするなら、ますますもって、正誤問題には いっさい距離をおくべきであろう。■というよりも、外来の要素でもないのに「構造には規則性があるため、全く別個に造られた漢字であっても、“他人の空似”を起こすことが少なくない」というのは、書記システムとしての漢字が、致命的な欠陥をかかえているということを、みずから強調していることを、自覚すべきであろう。「「開」と「閉」が似通っていること」は、エレベーターの開閉ボタンがらみで、事故をおこす危険性をかんがえれば、おもしろがってなどいられない。■これは、「漢字が表意・表語モジであり、瞬間的な了解ができる」といいはってきた俗論への、痛烈な反証であり、また 漢字が記号対立
〔記号相互の差異〕という次元で、不充分な体系なので、「どろなわ」式に、補足記号がくわわって、要素数がふえかねないという、危険性もうかがわせるわけだ。■実際、笹原氏が具体例としてあげるもののおおくは、地名・人名など固有名詞にもちいられる漢字表記の分化現象だった。コンピューターやヒトをなやませる、漢字システムのもっとも致命的な要素の第一は、こういった差異化しようという、かきての意識にそった分化現象であろう。■以前紹介した「、「人」という字の上部にスミが一滴たれて「・+人」が たてに1字化して正式登録されていた事例」などとともに、コンピューターやヒトが固有名詞処理にふりまわされる悲喜劇と、これらの現象は「せなかあわせ」なのだ。

■ところで、まぜっかえすようだが、「王」と「玉」が、将棋というゲームでは対立するコマの対立関係をしめすものでかないとか、幕末の志士たちが、天皇をさす隠語として「玉」とよびならわしていたといったことをかんがえれば、それが「差異」とよべるのか、微妙である。
■また、「0」と「O」とを区別するために斜線をくわえるといったが、日本の たてがき漢数字には、「ニOO六年」といった、事実上、アラビア数字「0」とローマ字「O」を混同させた表記が一般的ではないか? ■装飾的な字体以外、アラビア数字の「0」を円でかく例はすくないだろうし、それが無意識にローマ字との差異化をはかろうという動機をうかがうことも可能だろう。しかし、たてがきの漢数字において、たてながの「0」をかこうといった意識は、まずおきない。教科書体・明朝体による楷書イメージが支配的な活字の印象が規範となり、正方形のマスにうめるといった意識が、アラビア数字「0」とローマ字「O」を混同させた表記へといざなうのであろう。■つまりは、前後でモジ体系がいりまじる、といった危険性がともなわないかぎり、こういった くふうは発達しないということだ。■というか、ふざけるというか、わざとまじらせるばあいだって、あるんじゃないか? たとえば英米語圏だって、「007」は、「ダブルオウセヴン」って、よんでいるんだよね。「OO7」じゃないのに。■「009」を「ゼロゼロナイン」と日本人はよませたけれど。

■いや、漢字表記は、周囲に、カタカナ/ローマ字/アラビア数字をしたがえるだけに、さまざまな混乱をきたしながらも、まったくといっていいほど、付加記号を発達させていない。■たとえば、漢字の「力」とカタカナの「カ」、漢字の「口」とカタカナの「ロ」、漢字の「工」とカタカナの「エ」、数字の「1」とローマ字の「l」、長音記号の「ー」とダッシュ「―」や数学の「?」など、記号体系の混用・「共存」が、非常に強度な文脈依存性を要求している。。■これらに配慮した、付加記号のくふうなど、きいたことがない。■ヒトのよみとりでは文化資本(教養・専門知識)や意識水準を、光学よみとり機(OCR)では、解析能力と前後関係の処理能力を、異常にたかく要求されるということだ。
■もともと、機械でのモジ認識で「ピ」と「ビ」がよくまちがえられることでもわかるとおり、漢字識別に、どろなわ式に記号をくわえたところで、モジ処理の負担がへるとはかぎらない。差異を差異として認識するための能力が要求されるのだ。■機械が、つらいということは、ヒトも当然つらい。高齢者をふくめた障碍者などは、当然はじかれるような、「バリアフリー」の対極をいくようなシステムであることを、確認しておこう。

【つづく】


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