■つぎの一節は、先日の本田由紀氏の日記からの再引。■筆者たちは、日本の社会階層分析の第一人者とされているひとびとだが、非常に奇妙な議論を展開している。

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以下は、原純輔・盛山和夫「なくならない学歴社会」『社会階層 豊かさのなかの不平等』(東京大学出版会、1999年)からの引用である。
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 …学歴はその入り口においては完全に平等であるにもかかわらず、結果としては明白に階層的な一種の「身分」として機能する。それは、必ずしも高収入や高地位を保証するものではないけれども、名誉と価値が付随している。学歴に対する不公平感が強いのはおそらくそのためである。つまり、平等性と身分制とが両義的に結合しているのが学歴というものの特質なのである。

 近代社会の成熟とともに問題は一層複雑になってきている。その初期においては、福沢諭吉の『学問のすすめ』にもかかわらず、教育機会が平等でないことが第一の問題であった。階層論からの学歴社会批判は、今日の再生産論も含めて、一貫してこの方向で問題にしてきた。第二の段階では、教育における競争性が問題とされてきた。これが1960年代後半から今日に至る日本の学歴社会批判の中心である。そして、今日ではさらに新しい問題が生じている。「不登校」「学級崩壊」という現象は、教育達成を通じての職業的達成という個人レベルの目標感覚が希薄化したことを示している(森田 1991;田中 1999)。それらは、学校教育における競争性によって引き起こされているのではなく、学校教育の意義が個人レベルで感じられなくなっているところに問題の根源があると考えられるのである。それは競争性を緩和したからといって改善できるものではない。ますます意義を消失させてしまうだけであろう。

 この背景にあるのはむろん日本社会の全般的な豊かさにほかならない。これがは学歴社会のパラドックスである。貧しい時代、学校は近代的なもの革新的なものへの窓口であり、豊かさと名誉へと通じる道であった。学校そのものがわくわくする楽しい刺激に満ちた場所であった。しかし、個人的達成をてこにして社会レベルでの産業化を推し進めてきたその根幹のメカニズムである教育システムが、産業化のもたらした豊かさという果実のゆえに次第にその存在意義を内部から喪失しつつあるのである。

 今日の学歴社会は新旧のお互いに対立する問題性を同時に抱え込んでいる。教育の意味喪失を解決する手っ取り早い方法は学歴格差と競争を強化することであるが、それは不平等と競争性の問題を悪化させる危険がある。逆に機会の不平等と競争性を解消すると、教育の意味喪失を拡大させるだろう。このトリレンマに対する簡単な処方箋は存在しないように思われる。

 豊かさと、教育水準の飽和ともいえる量的拡大を達成したいま、学歴システムは社会全体の新しい展開とともに変貌を余儀なくされるだろう。それは、より成熟した人間的価値を重視したものになるかも知れないし、大学院を中心とする新しいエリート教育になるかも知れないし、そのどちらでもないかも知れない。ただ、どんな変化であろうとも、若者に未来への夢と希望をつちかい続ける教育システムであってほしいと思う。(74-76頁)

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■?「学歴はその入り口においては完全に平等であるにもかかわらず、結果としては明白に階層的な一種の「身分」として機能する」とか、近代「初期においては、福沢諭吉の『学問のすすめ』にもかかわらず、教育機会が平等でないことが第一の問題であった。階層論からの学歴社会批判は、今日の再生産論も含めて、一貫してこの方向で問題にしてきた」とかいうけど、「入り口においては完全に平等である」ような公教育システムが、かつて存在しただろうか? ■すくなくとも、首都圏には、私立や国立の小中学校があり、それは受験・通学という、経済階層・保護者の学歴を直接・間接にとう制度が厳然とある。■私立大学の医学部や音大などを除外すれば、東京大学の学生の保護者の所得がもっとも高水準にあるといった統計がしられているのに、機会均等が成立したことが、かつてあっただろうか? きのうコメント欄でとりあげた中野孝次氏だって、大工の棟梁のせがれだったから、当然のように中学校進学が断念されたのだし、肉体労働者とはいえ、棟梁という小規模経営層だったからこそ、旧制高校に在籍しつづける学資が送金できたのだ。■ブルジョア家庭や帝大教授の子息なら、そういった波乱万丈など存在しなかっただろうし、棟梁につかわれる、一大工のせがれだったら、中学校卒業検定試験の予備校にかようことさえ、ありえなかっただろう。■「教育機会が平等でないこと」は、近代の「初期において」でなんぞなくて、数十年まえまではロコツにひきつがれ、最近だって、就学補助をうけねば義務教育自体まともにおえられない階層が実在する。■この歴史認識の不足、現状認識の不足で、国勢調査の数値をいじったって、無意味なんじゃないか? というか、社会学をやる資格をもっていない気さえする。

■?「「不登校」「学級崩壊」という現象は、教育達成を通じての職業的達成という個人レベルの目標感覚が希薄化したことを示している」って状況判断を妥当として議論をすすめていんだろうか? ■「不登校」の要因はさまざまで、本人が「いかねば」とくるしんでいることがおおいし、実際、高校などで不登校をおこせば、就職進学に非常に不利にはたらくのが普通だろう。「教育達成を通じての職業的達成という個人レベルの目標感覚が希薄化したこと」が、直接の背景というのは、説明としてくるしい。■また、「学級崩壊」も、公教育の権威の崩壊を意味してはいても、「教育達成を通じての職業的達成という個人レベルの目標感覚が希薄化したこと」と直結はムリがある。■中学受験のストレス発散に学級崩壊を「指導」するエリート予備軍が、たくさん報告されている点などを、どう説明するのか? かれらは、いまだ学歴社会が厳然と存続していることを直感しているがゆえに、受験に無意味な小学校空間をうさばらしに最大限に悪用しているにすぎないのであって、有名中学に進学して、東大などにはいることで選択肢の自由度がたかまることを、ちゃんと計算している。

■?教育の「競争性を緩和したからといって改善できるものではない。ますます意義を消失させてしまう」という認識も、奇妙。■近年少子化によって、急速に受験のハードルがひくくなっているといわれる。以前よりは勉強量がすくなくとも、東大や医学部にはいれるようになったことを、予備校関係者などが証言している。■では、そういった「ハードル」の相対的低下が、公教育の「ますます意義を消失させて」いるのか? そうではないだろう。■まず、「ハードル」の相対的低下が すすんでいるとはいえ、依然として少数精鋭のあいだでの神経戦はつづいており、大衆全体の競争といった幻影がくずれたにすぎないと、みるべきだろう。■要は、戦前ほどでないにしろ、階層・階級分化を前提とした、それぞれのランク内部での序列競争が、ちゃんと維持されている。それは、戦前の受験競争が、大衆的でなかったから過酷でなかったのではないのと同様、依然として神経をすりへらす、マラソン競技のような「せりあい」がくりひろげられているということにすぎない。「市民マラソン」のように、全員で「用意ドン」ではなくて、レースが「実力」ごとにランクわけされているということだ。■むしろ、大衆的な「市民マラソン」に参加できるような幻影がとりはらわれた現在、戦意喪失した階層がめだつようになったという点こそ、重要だろう。

■?「産業化のもたらした豊かさという果実のゆえに次第にその存在意義を内部から喪失しつつある」というのは、一見もっともらしくみえるが、学校歴という「パイプライン」をくぐりぬけていく層以外にとって、もっとロコツにいうなら、学校歴という「パイプライン」からモレてしまって、再流入を断念した層にとって、公教育的価値観におつきあいする「すじあい」がなくなったということだろう。■学校歴という「パイプライン」をくぐりぬけることで、階層を維持・上昇できる=職業的ポストや結婚機会をつかめる層だけが、公教育的価値観におつきあいする意欲もわくし、そこでの競争を「ゲーム」として熱中できる存在ということだ。■そうでない層にとっては、義理だてするような魅力が皆無であることはもちろん、その偽善的で排外主義的な学校文化は、むしずがはしる性格だろう。■また、かりに少々魅力的な項目がみつかっても、学校外に産業界が提供するエンタテイメント=非日常性を演出する洗練された商品であふれる状況で、「地盤沈下」しない方が奇妙だ。■「産業化のもたらした豊かさという果実のゆえに次第にその存在意義を内部から喪失しつつある」といった、もってまわった、おもおもしげな表現こそ、空疎だろう。以前は、西洋からの外来文化=あこがれの象徴だった学校空間の諸項目が、大量の商品の洪水にのみこまれた結果、退屈と偽善と不信の象徴と化したにすぎないのだから。

■?「教育の意味喪失を解決する手っ取り早い方法は学歴格差と競争を強化することであるが、それは不平等と競争性の問題を悪化させる危険がある。逆に機会の不平等と競争性を解消すると、教育の意味喪失を拡大させるだろう。このトリレンマに対する簡単な処方箋は存在しないように思われる」。■この一節の無意味さも、あきれる。「競争の敗者は死を意味する」といった恐怖感・不安感=ムチをもってする競争原理は、不健全で野蛮な空間だ。プロスポーツという、あだばなの空間だけ、こういった価値観は意味をもつ。■もし、近代の人権の理念をおもいかえすなら、ムチをもってせきたてるような野蛮な原理=社会ダーウィニズムではなく、各人の適性を最大限にひきだし、いきがいと安心感をもって、日々をおくれるような、マルクスたちのコミュニズムの理想こそ、基本でなければなるまい。■学歴競争も、単に研究職のポストをめぐる「イスとりゲーム」であるなら、合理性がそれなりにあるし、その「負け組」もホームレスなどにならないですむ、「安全網」がはられているなら、それはそれでよい。■しかし、現実の労働市場にはびこっている学歴主義は、職務遂行能力とたかい相関があるかあやしい利用にとどまっている。まして、いま以上にゲームの結果で格差がひろがるような「改革」が人道上ゆるされるはずがない。■「機会の不平等と競争性を解消すると、教育の意味喪失を拡大させるだろう」というセリフにいたっては、めをうたがうばかりだ。「競争性を解消すると、教育の意味喪失を拡大させる」という想定は、わからなくもない。ゲームの報償が全然ないと、本気がだせないという、あさはかな人情は普遍的だから。■しかし、「機会の不平等……を解消すると、教育の意味喪失を拡大させるだろう」といった論理にいたっては、「なるほど、機会均等というタテマエさえも、実ははぎとっても、いいとかんがえていたんだ」と、いきなり ホンネをつきつけられれ、ギョっとする。■ブルジョア社会ってのは、スポーツ同様、ともかく機会均等でフェアプレイに徹するっていう、偽善的ではあれタテマエを護持する点に、唯一正統性があったんじゃないか? 身分同様の遺産相続とか同族会社とか、さまざまなインチキはあれども、能力・意欲に応じた教育機会の保障は、公的権力=国民国家の正統性の根源ではなかったのかね? ■「教育の意味喪失」をさけるためには、「機会の不平等」の温存さえも、思考実験にはふくめるといった、「思索の柔軟性」には、おそれいった。■ハラナからすれば、そんな不当な政策がゆるされるより、「教育の意味喪失」の方がずっとマシだとおもうが。
■ところで、「トリレンマ」って、3すくみ? 3要素の共存不能性? それともABCの3者関係のうち、3つの〔2+1〕の関係性が全部葛藤をおびることか? ■どれでもないよな? おそらく、学歴競争の結果で ロコツに差別化する原則=所得格差/権利格差と、学校教育というゲームの真剣さが、つよく相関するっていいたいだけだろ? それって、葛藤でも矛盾でもないよ。特に、「多少の格差はないとおかしい」って信じているあなたが、同時に、「学校教育は、みんな めをキラキラさせて真剣にとりくんでほしいな」って期待している以上、それは「両立」するんでしょ? ■「格差・不平等がひろがるのは、まずい」なんて、偽善的な良識もちださなくていいよ。本気で信じてないくせに。■あ、フランスみたいに、不満が都市暴動に発展するとまずいっていう、危機感はあるわけね。

■?「どんな変化であろうとも、若者に未来への夢と希望をつちかい続ける教育システムであってほしい」ってねがうのは、かってだが、あなたがたが、ホントに ねがっているのか、にわかには信じがたい。■すくなくとも、いまいったような矛盾点を理解できるような 10代のわかものたちなら、「こういったオヤジたちが、みがってな夢想にたっているかぎり、未来への夢と希望をつちかい続ける教育システムなんて、絶対にできっこないわな」って、みかぎるとおもうぞ。
■もちろん、「そうだ。成績順に、プロゴルフ・ツアーの賞金みたいに、たくさんもらえる社会じゃなくちゃ、やる気でないよ」っておもっている層には、「未来への夢と希望をつちかい続ける」議論かもね。■もっとも、「学校文化への適応性=自分の個性=天賦の能力なんだ」ってソボクに誤解できる能力、「学校文化への適応性は両親からの文化的遺産っていう色彩がつよい」っていう文化資本論的な再検討は全然しないですんでしまう感覚しかもちあわせない層にとっては、こういった平等がどうのとか、眼中にないけどな。