■シリーズの続編【「原田和明「水俣秘密工場」1-2」「3-4」「5-6」「7-8」「9-10」「11-2」】
■リンクなどは 原田さんではなく、ハラナによる追加。
■ちなみに、このシリーズ初回で原田さんがことわっているとおり、「水俣病は 1956年の公式発見から今年5月で 50年」をむかえる。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界の環境ホットニュース[GEN] 577号 05年04月07日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第13回】             
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 水俣秘密工場                   原田 和明

第13回 航空燃料工場の致命的問題

 竜興工場の製造課長だった大島幹義は工場の問題点を次のように記しています。

 「アセトアルデヒドの製造技術は日本窒素 水俣工場で1930
 年に完成し、その後改善を重ねてきたものであり、担当技術
 者並びに熟練工員を移駐して建設と運転に当たらせたので
 1941年に第一号基を完成して運転を開始した時は直ちに計
 画値に達するという好成績を収めた。しかし、運転基数が漸
 次増加するに従って成績が低下し故障頻発、戦争末期には
 イソオクタン製造工程中で最も弱い工程になってしまった。
 最も確実と見透された工場が最後には最悪の成績になった
 ことは大きな教訓であった。」

 「まず第一に考えられることは日産150トンの生産計画に対
 して日産10トン設備16基もおいたことだろう。日産 20-40トン
 規模の工場ならば一基能力10トンが適当である。また多年
 の年期を入れた工員のみで構成されていた水俣工場ならば
 可能であったかもしれない。アセトアルデヒド工場の運転は
 かなりの熟練を必要とした。」
(大島幹義「プロセス工学」1959年 化学工業社)
 朝鮮のアセトアルデヒド工場が最後に自滅した理由は「植民地」という制度自体に求めることができます。

 興南工場の運転は当初日本人のみで行なうとものとされ、朝鮮人の仕事は人夫と雑役ばかりでした。しかし、日中戦争以降、朝鮮人工員が激増、敗戦時には工員の8割に達しました。それでも工場の支配機構は最後まで完全に日本人が握っていました。賃金、住居など待遇面でも格差は激しく、日本人であればバカでも支配民族の一員であり、日本人による朝鮮人への武力は容認されていて、抵抗する朝鮮人は即座に解雇されました。日本人が偉い民族であるためには、朝鮮人はどこまでも劣る民族である必要があり、「朝鮮人をみたら・・・と思え」と教えられました。これが植民地の工場の実態でした。

 このような民族関係によって成立している工場で、運転工の主体的能動的な熟練を要する部門はどうなったのでしょうか? このようなどうしようもない差別・格差社会では朝鮮人は日本人の目を盗んでサボることだけを考えていました。それが朝鮮人をさらに見下す理由にもなっていましたが、敗戦後日本人と朝鮮人の立場が逆転すると日本人もまたサボることだけを考えるようになっていたのです。この植民地支配制度そのものが朝鮮での航空燃料工場自滅の要因となる「熟練工不足」の原因でした。(聞書水俣民衆史5 草風館1990)

 大島はもうひとつの問題も指摘しています。

 「アセトアルデヒド製造では触媒水銀の消費量は全運転にな
 ると 年間百トンに達し、日本の水銀産出量の過半を費やして
 しまうことになることも大問題であった。」

 真珠湾攻撃大勝利のウラではこのような致命的問題を抱えていたのです。さらに年間百トンの水銀消費といっても水銀が消えてなくなるわけではありません。水銀は廃水とともに海に捨てられていました。

竜興工場で働いていた工員のひとりは次のように語っています。

 「朝鮮でも金属水銀が精留塔プレートに溜まりましたよ。それ
 やこれやで1セット連続運転できるのがせいぜい3週間。いつ
 もどこかのセットがとまっていた。プレートの水銀回収は日勤
 の仕事だった。排水溝の水銀なんか回収しなかった。そんな
 ことさせる人間が居りゃせんです。」

 「廃液は最初のうちは全部垂れ流しました。大きな排水溝を
 作って 城川江に流した。城川江から海に行く。あとでマンガン
 回収工場ができてからは金属水銀を回収した。でも故障も多
 かったし、何やかやで廃液は相当垂れ流しとるです」
 (聞書水俣民衆史5 草風館1990)



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界の環境ホットニュース[GEN] 578号 05年04月10日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
            水俣秘密工場【第14回】             
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

 水俣秘密工場                  原田 和明

第14回 チッソ技術者の入れ替わり

 水俣工場は1945年の空襲で大打撃を受け、敗戦により日本窒素肥料(現チッソ)は航空燃料を作っていた朝鮮窒素肥料を含むすべての海外資産を失い、さらに財閥解体により旭化成積水化学などが独立、水俣工場だけが残されました。そこへ植民地朝鮮から支配者意識をもった、技術については誇り高い、朝鮮窒素の技術者たちが引き揚げてきたのです。彼らは水俣工場の中枢を占め、産業経済の復興という新しい国策に沿って生産をあげ、水俣を支配し続けることになったのです。1946(昭和21)年2月、アセトアルデヒド工場が 再開されましたが、その再開と同時に、当のアセトアルデヒド工程の発明者で水俣工場長だった橋本彦七は引き揚げ組に追い出される形で徳山工場建設所長に転出させられ、やがて退職してしまいました。(宮澤信雄「水俣病事件四十年」)退職した橋本は1950年の水俣市長選挙でチッソ労働組合の支援を受け当選しましたが、一時期食うにも事欠く有り様だったといいます。(西村肇, 岡本達明「水俣病の科学」日本評論社)

 1945年8月末にはチッソを含む全国の軍需会社は その指定を解除され、経営者は軍需会社生産責任者を解任されるとともに、降格または追放されました。米国の日本に対する賠償政策の基本的な方針は(1)平和的日本経済ないし占領軍に対する補給にとって 必要でない物資、設備、施設、(2)日本の在外資産の全部、を連合国当局の決定に従って戦勝国及び被害関係国に引き渡すというものでした。
(三井東圧化学社史)

 翌46年2月、チッソでは アセトアルデヒドの生産が再開されますが、アセトアルデヒド酢酸工程の発明者で水俣工場長だった橋本彦七が左遷されたのもこの頃です。これと入れ替わりに水俣工場を支配したのが朝鮮で航空燃料などを生産していた引き揚げ組でした。

 しかし、47年に入ると米国の対日政策に変化が見られるようになりました。中国共産党の成立、米ソの対立が次第に明らかになるにつれ、賠償問題も大幅に緩和されることになったのです。米国は日本を工業化、再軍備化して共産主義に対する防衛線にしようとしたのです。

 48年3月、ドレーパー賠償 調査団が来日、日本経済の早期自立のために賠償問題を再検討し、賠償総額を 6億6千万円余とポーレー案の1/4に減額、しかも5億6千万円は旧陸海軍工廠の施設を充当し、重化学工業設備のほとんどを賠償から除外するというものでした。こうして賠償指定工場の多くは撤去を免れ復旧と生産拡大に専心することができるようになったのです。

 工業化には資金とエネルギーが必要です。第一次吉田茂内閣は、傾斜生産、つまり主要産業(この場合1946年には食糧・石炭産業、翌年にはそれに加えて鉄鋼・肥料産業)と特定企業に超重点的に、エネルギー源である石炭を配分、資金は復興金融公庫から融資しました。

 その過程で昭和電工 疑獄事件が起こりました。チッソと昭和電工はともに戦前には化学肥料爆薬を生産し、戦後はアセトアルデヒド工場廃水から水俣病新潟水俣病を発生させるというよく似た生い立ちをたどった会社です。昭和電工は巨額の復興資金を引き出すために政府高官、GHQ高官に莫大なワイロを贈り、昭和電工1社で復興資金の半分にあたる30億円を獲得してしまったのです。

 チッソには復興資金をめぐる黒い噂はありません。その代わりにかつての日窒コンチェルン〔ママ〕の栄光再現を夢見て、米軍が必要とする軍需物資の生産を引き受けたのではなかったでしょうか。

 そして1950年6月、朝鮮戦争が勃発。翌1951年、チッソ水俣工場の アセトアルデヒド工場でプロセスの変更が行なわれました。既に会社の中枢を占めていた「引き揚げ組」はそれまでのアセトアルデヒドの蒸発・蒸留方式と触媒を変更したのですが、これが大誤算、故障続きのあげく、劇症型水俣病を発生させてしまいました。

 水俣工場でのオクタノールの生産開始は朝鮮戦争の最中1952年9月のことでした。
【つづく】

【関連資料】「水俣病問題関係略年表等