■何度かとりあげたとおり、笹原宏之氏は、漢字表記の画数がおおさに対して かきてのがわでの合理化=省力化として、省略をふくめた さまざまな変形をうんだことを詳細にあとづける。■しかし、前回前々回の例のように、さまざまな理由から、画数の増加をふくめた省略化とは逆方向の 変形もみのがせないことが、わかった。
■今回とりあげるのは、第12回でも少々ふれた「異体字を遣い分ける」事例。
■笹原氏は、「特定の場面に、旧字体が残るケース」に着目する。「寺社や祭りなどで寄付者の名前が掲示される際に、金額に「万」ではなく「萬」が記される」例など。笹原氏は、「現代の目から見ると改竄をふせぐための大字〔だいじ〕」にあたると。■おなじことは、「数字を改竄されないように「ニ」を「弐」とするたぐい……であり、今日では「大蔵省令」などの法令による規定にも「壱」「弐」などの使用が定められている」と。■「寄付の「萬」には、額がたくさんだという意識を読み取れる」というのは、なにやら いじましい(笑)。■「仏事では、今なお「御佛前」など、旧字体が使われることが多い」というが、アラビア数字が、ごまかされないよう、銀行などで特殊な字体がくふうされていることをかんがえると、「改竄〔かいざん〕」=かきかえ防止といった機能的合理性で説明するのは、少々ムリがあるだろう。想定される「マスめ」に不自然さをあたえずに、かきかえをおこなうことは不可能なのであり〔行列のなかで、ふぞろいになるとか、多額寄付者から序列化するなど〕、やはり「額がたくさんだという意識」をもとにした、縁起をかついだ装飾(=「江戸文字」などにも通底する)なのだとおもわれる。

■「御仏前」ではなく「御佛前」とわざわざかくのは、前回ふれた「字の構成に空白が目立つ場合に……点画を追加する技法」である「補空」が、一応かんがえられる。■が、おそらく、「仏事」など、伝統=回顧的な空間では、旧漢字=正字=正統的といった、非日常的な反動心理がはたらいた産物ではないか? そのときだけ かしこまり、しおらしく ふるまう気分に ひたるためには、ひごろ 全然活用していない、復古的で非日常的な「知識」「文化装置」が、なにやら ありがたく、ふさわしいような錯覚にとらわれるのであろう
(笑)

■これら、さまざまな旧字体の非日常的浮上=復古は、社会的事実エミール・デュルケーム)であり、社会言語学教育社会学が、正面からとりあげるべき社会現象にほかならない。■しかし同時に、冠婚葬祭などでのマナータブーなど規範意識や、てがきモジにからまる、さまざまな文化資本として、継承/蓄積されうる差別化装置といえよう。



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