前回分析したとおり、家族コメディである8コマまんが『ロダンココロ』は オトナむけであり、しかも アニメ化されていないために コドモむけの「無毒化」の必要性がないにもかかわらず、かなり保守的な家族像=身分秩序を当然視した舞台設定となっている。■それはもちろん、家族関係だけでなく、座敷イヌロダンをふくめて。

■シリーズ第1回で、「ロダンは、「ののちゃん」に登場する 究極の不機嫌/無愛想犬ポチ*とは、正反対といえるキャラ」とのべておいたが、人間社会を冷静に皮肉っぽく客観視する、漱石の「吾輩=猫」とも、正反対にあることも、重要だろう。■内面があるのだが、「自由猫」である 漱石作品の主人公とはことなり、完全な「下僕」なのだ。
■つぎに モジおこしするのは、作品37(1997/01/17)「寒くて帰宅するとロダンのほっぺをグニグニする奥さんとお嬢さん。だんなはしないのでさびしいロダン」『ロダンココロ』〔p.41〕
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?(帰宅直後玄関にでむかえたロダンのほほを)「おくさん」が、グニグニ
?「そとは さむかったワ」(ロダンの内面「よろこんで いただけで うれしいですワイ」)
?(ロダンのほほを)「おじょうさん」が、グニグニ
?「ロダン あったか?い」(ロダンの内面「おもう ぞんぶん グニグニ してくだせい」)
?(ダンナが)「ただいま」(ロダンの内面「さあっ! ダンナもどうぞっ !!」)
?(ダンナが両手を)「ハーッ」、(ロダンが予想外の展開に)「ハゥッ」
?(ロダンの内面「ダンナァ グニグニは?」)「どうしたロダン」
?(ロダンの内面「おやくに たたせて くだせいよう」)「アゥ?(すがるような、あまえたかおつきで)」

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■ここには、服従・抑圧といった、ひどい状況は いっさいかきこまれておらず、ただただ、あったかな やりとりだけしか、みあたらない。■「このほほえましい状況で、充分ほのぼのするのだから、無粋なことは……」という感想は理解できなくもない。
■しかし、ふゆの帰宅直後のヒトの両手は、かなりつめたいはずだ。「グニグニ」が、ロダンにとって、きもちいいこととは、到底おもえない。要は、マゾヒスティックな自己犠牲、奉仕の精神なのである。「ご主人さまたちが よろこんでくれたら、ただただ うれしい」といった感情が、たとえば奴隷制度の当事者に全然なかったなどとは、いわない。■しかし、家人の処遇にときどき不満気なロダンには、ちゃんと内面が存在し、生理的反射とは異次元な「すき/きらい」が実在するのに、ロダンは家人に ひたすら 従順であろうとするし、基本的に みな尊敬にあたいする人物だと信じているように、設定されている。■ここに、「葛藤のないオヤコ関係」「葛藤のない身分関係」という、極度に美化された関係性が投影されていることは、あきらかだろう。
■天皇制はもちろんのこと、王族や組織の宗家、指導者などに対する従順は、ロダンの従順さに象徴されるような、ただ ひたすら 上位の人物にとって つごうのよい(いや、つごうがよすぎる)関係性・序列意識なのではないか? ■オヤコ関係に擬せられる教育とか植民地支配とかは、こういった上下関係を「自然な摂理」として、「すりこみ」をおこなう制度・技術だったのではないか?

■『ののちゃん』の「番犬」、そして『フン!』の主人公「ポチ」は、性格がわるくヘンクツなるがゆえに、山田家の住人とソリがあわないのではなくて、単に自己防衛的に行動を選択していけば、ハイリスクの山田ファミリーの行動をさきまわりして回避するのが、当然なのである
(笑)。■また、漱石の「吾輩=猫」の視線は、漱石自身がもっていた皮肉っぽい人類学的自覚といえるだろう。
■対照的に「ロダン」は、日々思索にふけるのだが
(笑)、異文化摩擦はひきおこしても、家人の身分序列と、自分もふくめた関係性については、まったく批判精神がはたらかない。すべては、善意と諦念に終始しているからだ。
■それは、作者の 内田かずひろ というマンガ家の政治性を問題視することで、のりこえられることではない。この文章も、内田氏の無自覚な政治性、身分関係の非政治化を問題視したいのではない。■そうではなくて、われわれ自身が「ロダンココロ=外界の解釈」に「愛」を感じとり、やすらぎをおぼえる、「その政治性とは なにか」をおもいいたすべきだと。




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