■昨年くれに「動物をかうことの意味」という、万人を不愉快にさせるような文章をかいた(獣医師さんから、署名いりで、批判まであびたほど。笑)。■ほぼ一年まえには、「イルカによる自由連想」という、これまたアスリートとスポーツファンをいきどおらせるだろう文章をかいた。■両方に共通する論点は、「ヒトは、なにゆえ動物を保護するかのようなリクツを、でっちあげ、拘束し、搾取するのか?」「みせもの化して、なにがおもしろいのか?」という、かなり根源的なといかけだとおもう。
■後者の文章で、「おれたち(あるいは、自分たちファンが敬愛する)一流選手の身体能力を動物のショーと同一視するなど、バカにしおって」と、いきどおるなら、ハラナの私見の誤読である。■むしろ、「一流ではないらしい」イルカのみせるショーが 実演している、あの身体能力のすごさを、どうみるのだろう。水面からとびあがる、という水泳競技を考案していいのであり、そのばあい、おそらく、ヒトの代表選手は、イルカの2流にもまったくおよばない惨敗をくりかえすだろう。いや、ヒトの遺伝子操作でもしないかぎり、5メートルといったたかさまで、とびあがれるとは到底おもえない。不世出の天才が、最高の工学技術を駆使して6メートルとんだだけで、「鳥人」とよばれたくらいだからね(笑)。■サッカーとか、ゴルフとか、さまざまな複雑そうな競技をもちだして、ヒトの代表選手の運動能力を擁護したってダメだ。■100メートルはしりぬけるだけとか、単純このうえない〔失礼(笑)〕競技種目はたくさんあるよね。■サラブレッドチーターに匹敵する短距離走者・中距離走者が100年後でも、でているだろうか?

■じつは、ハラナは先日、動物園にいく用事があった。■そこで、はじめて、閉園時間まぎわの光景をいくつかみることができたのだが、そのなかで、イルカ・ショーと同様、ゲンナリさせられる、いや、ものがなしい気分にさせられる体験をした。
アジア・ゾウの一頭が、ごちそうらしい、ニンジンをたべるまえに、ハーモニカをふいたり、いくつかの芸をさせられていたのだ。■指揮する飼育係も、ゾウも、「ルーティーン(日常業務)」らしく、何の ひっかかりもなく、淡々とことをすすめていたが、積年のうらみをはたすべく、スキをついて ゾウつかいをふみころしたという、ゾウの悲話などをきかされると、さぞや知性にとんだ存在なのだろうと推測する。■そういった知性ある存在を軍用につかうばかりか、処刑にまでつかったとかきかされると、ヒトという存在のあさましさを、つきつけられて、正直おちこむ。■そして、たのしくもないだろう、ハーモニカの演奏もどきをさせられるゾウの屈辱感・無力感たるや、想像を絶するものがある。■高村光太郎が「ぼろぼろな駝鳥(だてう)」という詩で、とじこめられたダチョウの あわれさを、心身の「とらわれの身」という心理的投影をこめてかいていたが、それはゾウやイルカなど、知性あふれる存在にとどまらず、動物園水族館全体の運営方針、維持目的にかかわる、絶対的矛盾ではないか? ■前回もかいたとおり、絶滅危惧種などの保護、およびそのための研究といった、動物学的な理由をもちだしたって、あやしいとおもう。
■ところで、刑罰としての自由刑のなかで、当然視されてきた懲役は、「生産作業の中でも民間企業の製品を製作させる行為はILO条約が禁止する強制労働に当たるとの批判がある」のだそうだ。当然だろう。罰として労役を課すといった正当な根拠など、どこにもみあたらない。■しかして、動物園・水族館の動物たちとは、「つみもないのに、懲役・禁固という めにあわされている存在」であると、きづいた。■奴隷強制連行による「タコ部屋」、誘拐による「監禁」、先住民の居留地への強制移住などは、究極の人権侵害とみなされているが、こと動物については、ごくあたりまえにくりかえされている。いまでこそ、絶滅危惧種などが、捕獲・売買の禁止措置がとられているが、密猟・密輸入はたえないし、動物園・水族館がかかえこんでいる動物だって、「奴隷」とか「懲役・禁固」とかにあたる不法行為の被害者だろう。ちょうど、大英博物館ルーブル美術館の展示品のおおくが「もと戦利品」「もと強奪品」「もと盗品」であるのと、おなじように、動物学という装飾がかかっているだけではないか?
■「イルカショー」やら「ゾウの演技」なんぞで、ひとよせをはからないと、運営がなりたたないといった、商業主義的基盤だけを問題にしているのではない
〔それも大問題だが〕。■動物の個体が当然感じているだろうストレス・屈辱感・無力感などを、「保護」「飼育」といった、正当化でごまかせるのか、という、動物実験などとつながる、「権利」問題としてである。
 
■また、サーカスが、おもに経済的な下層出身の団員を軸に成立した経緯は、バレエなど同様、「パフォーマンス興行」の本質的なものかもしれないが、ともかく 身体運動(および、身体のライン自体)を「みせもの」にするという点で、動物と団員は、非常にちかい位置にいることに着目すべきだ。それは、観客たちには到底マネできない、まさに「芸当」「曲芸」なのだが、観客たちは、そんなムリ=ハイリスク運動などしないですむ「身分」にあると、逆説的にいえるのだから。■それは、バレエダンサーたちを愛人とした貴族・ブルジョア層の男性たちが、とんだりはねたりする必要がなかったこと、スタジアムでくりひろげられる身体運動の競技・祭典を、大観衆を「招待客」として動員しえることに満足感をおぼえる古今東西の権力者たちが、からきしの運動オンチでも なんら かまわないことと、つながっている*。■そして これは、再三のべてきた、「よわさ/無能さ」の二重の基準による両義性と、ちょうど、対称形をなした、「つよさ/有能さ」の両義性でもある。


*一般の観客たちは、特権をもたない大衆のひとり、権力者たちは興行全体の特権にあずかる少数者たちとして。しかし、両者とも、動物やパフォーマーの身体性を搾取・窃視している点では、通底している。前者のばあい、ストリップ劇場のような性風俗の愛好者でもないかぎり、自覚などないだろうが。
【つづく】

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