さきに、?写真は、文脈をはぎとられた、貧弱な瞬間の記録にすぎず、「その前後でなにがおきたのか」、「全体の文脈のなかでどういった意味をもつのか」が、実はわからない可能性がたかいとのべたが、これは、さらにディジタルビデオ映像作家との対比で、深刻な意味をもったとおもう。■なぜなら、ビデオ映像作家は、「決定的瞬間の前後でなにがおきたのか? 全体の文脈のなかでどういった意味をもつのか?」を前後の動画と再生音によって、ほぼ誤解なしに、つたえうるからだ。
■それは、ひょっとすると「やらせ」かもしれないが、いずれにせよ、作家=映像編集者は、「一応責任編集のうえ、誤解されないような情報をマルチメディアで提供しました」と、うそぶくことができる。■しかし、写真家は、芸術性だけを追求し、ばあいによって誤読も可とひらきなおるのでないかぎり、「なぜそのような瞬間がえらばれたのか?」「それは、ホントに決定的瞬間なのか?」「この前後に、もっと本質的な現実=視覚情報があったのではないか?」という、疑惑をつねにまとわせてしまうからだ。■ビデオ映像作品のばあい、「やらせ」にダマされようと、それは「実際にあった現実」だろうという、なっとくを視聴者がえることが可能だが、写真は、技量もふくめて「写真家のいう『決定的瞬間』といいはる編集の正当性」自体に、潜在的な疑念をいつもいだく構造をひきずってしまう。

■?写真家が、映画監督なみに「特権的な編集権」を主張してきたとしても、その特権性自体が、決定的に地盤沈下した。■写真は、〔記録映画以外の〕映画のような、「つくりごと」「やらせ」を前提にした芸術作品〔たとえばヌード写真とか、画像処理によるデフォルメなど〕でないばあい、鑑賞者を支配する能力という意味でも、決定的に劣勢になった。■1990年の湾岸戦争で、アメリカ軍の爆撃を、あたかもイラク軍がヤケになって石油基地を自爆させたかのように報じたメディアが最大限に悪用したのは、「油まみれの鳥の映像」だった。■つまり、動画の配信は、映画同様、かぎりなくフィクション化することが可能である。前述したような「やらせ」のように、舞台で非現実を演出しなくても、視聴者にふれる動画の展開が限定されているという、まさにその編集権が、いかんなく発揮=悪用された典型例が、「油まみれの鳥の映像」といえるだろう。■残念ながら、この圧倒的な説得力=ダマシの権力は、写真にはありえない。いや、ルワンダ内戦で、住民を大量殺人へとみちびいたラジオ放送とか、「やらせ」をやるつもりなどなかったけれども、オーソン・ウェルズが演出したドキュメンタリー形式のラジオドラマ『火星人来襲』による大パニック事件のように、「物語」性をおびた「かたり」、連続した音声の影響力とくらべても、その劣勢は、うたがえない。■逆説的ないいかただが、動画・音声は、あたかも全体をすくいとっているかのように、うけとられるからこそ、それを「さかて」にとって、「いたずら」「わるさ」が可能なのだ。

■?いまや、静止画像としての報道写真・記録写真は、録画されていないテレビ放送の動画が「じっくり、あじわえない」「すぎさった瞬間が再生できない」という点で欠点があるということ以外、動画にまさる点がほとんどないのだ。■「じっくりみられるから、動画より静止画がいい」というのは、「長編小説よりも短歌・俳句の方が表現が凝縮していて、緊張度・芸術性がたかい」という議論と、同形ではない。■芸術作品のばあい、簡潔性が感動・衝撃という次元で優越する可能性があるが、それ以外の記録の伝達という次元では、「つよがり」「まけおしみ」でしかない。■動画が静止画に少々おとるとしたら、それは、動画が長時間のばあいに、最適画像にもどるのが、少々むずかしいという点ぐらいか

■インターネット上の広報活動のうち、とりわけ商品説明の大半が動画に移行しつつあるのは、あたりまえのはなしだ。「静止画像で、じっくりみればよくわかる」ばあいもあるが、それは動画を随時とめられるようなつくりにした時点で、利点をけしさられてしまう。■インターネット上の広告活動も、いずれ「デジタルビデオ再生」に準じた、視聴者本位のものへと、とってかわられるだろう。そういった努力をおこたるのは、資金不足か、「静止画像をえらばれると、まずい欠点がかくされている」という含意という共通認識が一般化するだろう。
【つづき】