■?芸術写真以外の、報道写真や記録写真が、動画映像に決定的に劣位にまわったことを2回にわたって強調したが、付随的にのべておいたとおり、芸術作品のばあいは、逆説的に 写真家の特権性がうきぼりになるといえそうだ。■報道写真としてではないスポーツ写真とか山岳写真なども、芸術写真同様、デジタル・ビデオカメラが静止画像の集積だからこそ、写真家が独自に「えらびとった一瞬」だからこそ、美・感動・衝撃のための「厳選」という特権性が浮上する。


■さて、このように デジタル(ディジタル)技術による情報の「記録」は、当然、転送をふくめた複製技術を全然別次元にみちびいてしまって、Winny騒動や、先日紹介したような指紋データの悪用の危険性など、コンピューターの計算速度の加速化の進展もあいまって、マルクス〔1818-83〕たちはもちろん、ベンヤミン〔1892-1940〕やオーウェル〔1903-50〕たちにとっては、まさに科学空想小説の次元としてしか夢想できなかった次元に達しているだろう。
■もともと、デジタル(ディジタル)技術とは、アナログな(=連続的)な自然=現実を、0/1など有限の記号要素に対応=還元させることで、わりきる手法全体である。■マニアックなオーディオファンが、コンパクトディスクでは満足せずに、雑音やひずみがおおいはずの、アナログ・レコードにこだわっている例などを例外とすれば、大衆のアナログな体感は、デジタル技術によって分解されて擬似アナログ的連続体として再生されたものと、自然なアナログ的連続体=オリジナル情報と、区別がつかない。■幕でとじられたうしろで、なまバンド=オーケストラが演奏したのか、レコード録音の再生音だったのか、聴衆が区別できなかったという逸話をきいたことがあるが、コンパクトディスク(CD)によるライブ録音〔このいいかたも、まさに複製芸術時代を象徴しているが〕であれば、区別できる方が異常といえそうだ。
■つまり、現代では、いわゆる5感のうち、におい・あじなど、物理的実体=化学物質を介さない3感
〔視覚・聴覚・触覚〕は、充分「臨場感あふれる」次元で、再生可能なのだ。■しかも、デジタル化された情報は、プログラムミスなどによる欠落がないかぎり途中劣化することがないから、オリジナル情報からのデジタル化でうしなわれた微細な部分以外、すべて完璧に再生する能力をもつ。■たとえば、原理的には人型ロボットデジタル・セックスの体感を何度も同一に再現することさえ可能である。

■こういった事態=デジタル技術による、複製化の進行は、もちろん、黒崎教授が問題視するクローン技術のように、かたや神戸牛みたいなブランド肉を大量生産したいとか、うしなった愛児やペットの遺伝子的再生をのぞむといった、典型的なカンちがいをもたらすなど、ひとびとの感覚を完全にくるわしてしまう。■それは、もちろん、化学工業によって可能となった、工業的な農業生産や服飾技術、そして合板技術によって、衣食住全般が、ひとまかせ・市場まかせになって、「ひとが、たいせつなひとのために、かけずりまわる」といった「ご馳走」などの実感を完全に消失させるような大量生産・大量消費社会として、すでに「じならし」が充分すんでいた。■物質的な次元で、あきるほど複製技術が実現し、モノのありがたみがなくなった時点で、情報・記憶のありがたみを徹底破壊する技術が「開花」したのだ。

■このようななかでは、情報は、基本的に「あまっている」。一刻をあらそう時事的な情報とか、ウラ情報のような希少なもの以外、過剰に配信・共有化されている。■もちろん、いかなる時空でも情報格差はあり、そこにこそ資本主義やアカデミズムの革新競争の源泉があるのだが、大衆的消費という次元では、生産過剰と消費過剰・大量廃棄という、巨大なムダがくりかえされる。■こういった、情報の供給過剰
〔もちろん、必要な情報が全然あつまらないという、情報分布の「ムラ」は厳然と、膨大に放置されたままだが〕と、食傷気味に情報の「つまみぐい」をくりかえしている大衆という構図は、時間がたりず、経済力はあるという富裕層の一部を中心に、情報の取捨選択・整理という、サービス産業が誕生する。■要は、一見「過剰」にみえる情報洪水も、無価値か、すくなくとも「つかいがって」という次元で価値がひくい「雑音」だらけという状態にほかならない。■たとえば、Googleなど、ロボット型検索エンジンに、さえないキーワード(検索語)をいれてしまったときの、さえない検索結果のような、なさけない状況とおなじだ。■Yahoo!など、「ディレクトリ型検索エンジン」は はやらなくなり、「ロボット型」との併用になりつつあるといわれているが、こと、一般人が情報探索をするばあいに、ちからまかせな「ロボット型検索」的な行動は、無意味なことがおおい。

■つまり、Googleづかいの達人は、自宅のパソコンで、適切なキイワードを駆使してバリバリ「最適解」にたどりつけばいいだろうが、凡人は、「適切なキイワード」がなんなのか自体が不明・あいまいな以上、ムリな努力は、ムラのある「しらみつぶし」=デタラメ探索であり、結局、くだらないムダにおわると(笑)。■それが、「貴重な授業料」となって蓄積され、飛躍的に「ロボット型検索の技量が向上していけばいいのだが、そうなるという保障などない。……となれば、おとなしく、有能な司書が配置されている
(いまどきは、どろなわ式に司書免許をとって、異動とともに、いれかわってしまう要員がほとんどのようだが)図書館で相談にのってもらう方が格段にマシということになる。■この、情報の編集=取捨選択・圧縮作業こそ、本シリーズでのべたかった「低次元」化という過程なのだ。
【つづく】