■かなりしつこく、静止画像としての写真をやりこめたようなかっこうになったが、それは、いま急展開中の複製技術の進展の情報理論的な意味を再確認しておく必要を感じたからだ。■そして、究極の「編集作業」というべき、一方向限定の「アングル」と、夜間の恒星・惑星の運行軌跡を記録するときに、何時間も露出させるといった例外的な撮影以外、一瞬だけの情報という、従来の楽の写真家の特権をうきぼりにしたのであった。
■このように、徹底的に分析してかんがえることで、?ビデオ映像作家は、「よりどりみどり」の無数の静止画像の選択権をてにしていること、?さらに、写真が前後の視覚情報を排除し文脈不明になりがちな致命的欠陥をかかえるのと対照的に、必要な時系列情報を視聴者に提供する。必要なら、字幕スーパーや音声という補足装置まで動員するという、えげつないほどの「総動員体制」をそなえているという優位さが、うきぼりになる。
?しかも、視聴者には、「事実すべてを提供している」かのような、ある意味「うすぎたない」ほどの詐術=トリックをもちいて、みずからの取捨選択・圧縮拡張という、加工過程をかくしおおせる。■映画テレビドラマのように、フィクションという、ことわり=約束事をへることなく、「やらせ」をふくませたり、あったことを不在にしたり、実は自在に「事実」をゆがませることが可能であることが、湾岸戦争などで立証された。

■実は、こういったビデオ映像作家の特権性は、映像・音像の編集作業だけではなく、あらゆる情報加工につらぬけられている権力行使といってよいのである。■というか、特定の言語を対象化=記述するメタ言語という構図と同形で、特定の情報(事実・現象・認識・感情……)についてのメタ情報自体が、つねに権力行使の本質をもっているのだ。このシリーズでとりあげた写真=静止画像の「題」とか「キャプション」「解説文」とか、ウェブログの文章=本文についての「コメント」なんかもね。
■劣位にある社会的弱者によるメタ情報がみむきもされないとか、発信自体がおさえこまれてしまうとかあっても、本質的には、「対象化された情報」のがわは、せいぜい訂正要求のための反論ができるだけで、メタ情報の発信行為そのものが制止されないかぎり、論理的には優位にたってしまう。■そして、編集者にその自覚があるかどうかはともかく、編集作業という取捨選択・圧縮拡張という加工過程そのものが、素材である対象情報に対するメタ情報の産出を意味する。
■辞典・事典・文法典の編集作業なんてのは、そういった意味で典型的な権力行使だし、実際、辞書・事典・文法書にとりあげられることを、広報活動として好意的にうけとめる層だけではなくて、知的搾取とか暴力とうけとめる層=少数派がすくなくなかったことは、ある意味当然だった。

■そして、こういった編集作業を意識して以前かいたのがシリーズ「Wikipedia型教科書の構想」である。■そこでは、利用者の便・主体性を最大限に考慮して、検索の心理的・物理的負担を最小限にまでへらす方針をうちだしておいたが、まさに学習過程を保障するための権力行使として、編集作業を体系化したいということだった。
【つづく】


【シリーズ記事】「編集作業としての低次元化1」「(その)2」「(その)3