■「差別論ノート21」をはじめとして、なにゆえ屈強な軍人=動物なら もっとも生存能力がたかいはずの存在をよしとする価値観だけではなく、貴婦人をはじめとした繊細な存在が高貴なものとして、たいせつにされてきたのか、普遍的な逆説の分析を何度もかさねてきた。■今回は、ヒトは、なにゆえ「こそだて」をくりかえすか?という、よくかんがえると、エグい次元にもたどりつきかねない発問と論点整理。
■もとより、「こそだて」がくりかえされているからこそ、人類史がつづいてきたわけだし、現在も「少子化」になやむ先進地域はたくさんあるが、地球全体のヒトの人口はふえる一方でえある。■なぜふえるのかは、巨視的には、「それだけ くえるよう 食糧生産・流通が発展し、しなずにいきのびられる条件がそろってきたから」である。■しかし、そういった食糧問題=巨視的次元以前に、「なにゆえ ヒトは生殖行動をくりかえし、しかも育児行動を放棄しないできたのか?」という、微視的メカニズムがあきらかにされなければなるまい。■食糧問題というのは、あくまで巨視的な「許容量」の次元にすぎず、それは、毎日世界中におびただしくくりかえされているはずの生殖行動・育児行動の基盤=当事者たちの動機を説明しないからだ。

■すでに、1970年代なかばには、心理学者の岸田秀さんが「何のために親は子を育てるか」というエッセイを発表ずみである
〔『ものぐさ精神分析』所収〕。それと内容的にかぶるだろうが、当座の私見をまとめておく。

■コドモが ペット同様、あるいは愛人同様、保護者の管理下から自由でなく、あくまで限界内部での主体性しかみとめられていない弱者であることは、あきらかだ。■何度もくりかえしたきたとおり、成人男性たちによる「オンナ/コドモ」という表現自体に、不完全で十全な主体たりえない、かよわい存在という、あわれみ=優越感をともなった「あなどり(侮蔑)」、排除=差別が、ロコツにしめされている。■監禁・軟禁状態にある性的奴隷とか、サーカスや動物園・水族館においてショーに動員される動物のように、最低限いかされているだけで単に搾取される存在を、極端な例外とみるのは、まちがっている。■かこいこまれ、主体的な選択の自由をあたえられていないコドモは、オトナの「善意」でいかされているだけで、オトナが保護義務を放棄した時点で、死に直結する事態がとなりあわせなのだ。是枝裕和監督の映画『誰も知らない』の例をおもいおこせばよい。■朝鮮半島の少年脱北者やブラジルなどのストリート・チルドレンのおおくは、たくましくいきぬいているといえるかもしれないが、飢餓やエイズ、「街頭浄化部隊」などによる襲撃など、死のリスクと「せなかあわせ」なのだ。

■これでわかるとおり、コドモ、とりわけ経済・心身両面で」ユトリにみちた保護者のもとで愛育された存在は、身分社会の王子・王女のような、「はこいり」の人生をあゆみはじめるが、大半のオヤにとっては、かなりの経済的・精神的・肉体的に過大な負担であり、しかも動物のように、生得的な本能的プログラムにそった行動様式では全然ないという点で、本質的に「あやうい」「つなわたり」的過程なのだ。■古今東西おびただしくくりかえされてきた、こごろし/こすて、虐待・支配、そして 種々雑多な手段=道具化(母親の自己実現とか、父親の人生の「かたきうち」とかもふくめて)などは、例外ではなくて普遍的な「常態」であり、そういった「危機」「苦境」をかいくぐったものだけが、社会生活を「普通」におくれているとさえいえる。■このように、かんがえると、こういった「つなわたり」的行動様式が、変遷・変質はありつつも育児文化として継承・維持されてきたことへの奇妙さを、「共同幻想」という術語で説明しようとした岸田さんのするどさが、ひかる。■こそだてがまがりなりにも、くりかえされることの不思議さにソボクに感動すれば、人類学・教育学・社会学徒になるだろうが、ヒトにだけ共有される、異様な「つなわたり」と、つきはなした視線は、たしかに、「つづいているのだから、そこに再生産機構があるはず」といった、社会学的な、ソボクな課題で満足できるはずがない。
■また、このようなムリがとおされているという認識があってこそ、儒教倫理の徳目「孝」の偽善性やら、「恩着せがましさ」という、親子関係(師弟関係にも)にまとわりつく普遍的心理機制を冷酷に分析できたのだとおもう。
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* もちろん、岸田さんのばあい、血統上のオバさんに養子とされ、実母のように演出されたという生育史=強迫神経症の基盤を無視できないが。

■つまり、われわれは、カッコウなど種のことなるものから「托卵(たくらん)」されても きづかず、ひたすらエサをあたえつづける鳥類のような、本能的かいがいしさをもちあわせず、しかし、岸田さんの指摘するとおり、本能以外では到底ムリなしに維持できない、非常に過大な育児負担(=ポルトマン「生理的早産」)をしいられる、という、きわめて皮肉な逆説を、おやたちは経験しているのだ。■岸田さんは、この逆説を、《動物行動を参考に共同幻想を構築。各集団ごとに継承することで育児を合理化=正当化し、ガマンをかさねてきたヒトという種》として解釈する。■古今東西の「血統幻想」なども、その延長線上で解釈が可能だ。とりあえずの疑念・課題群は一応」氷解する。すばらしい「解」だ。
■しかし、それで、すべてオヤコ関係の心情が説明しつくせるだろうか? ■たとえば、コドモをかわいいと感じる心理は、周囲の育児文化とか血統幻想など、イデオロギー群を内面化=共有化した自我体制の機械的産物なのか?
【つづく】

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