■さて、前回前々回」と、なにゆえヒトは生得的行動とはおもえない育児、しかも生得的にプログラミングされていないかぎり到底たえがたい負担をにないつづけられたのかを、かんがえてきた。■要は、保育者が「理不尽」「限界」という状況でキレそうなるのを、すんでのところで回避するような戦略を、乳幼児が発達させてきた(というか、そういった行動原理を遺伝子情報としてもたない個体は、早々に死にたえてしまった)らしいという仮説にいたった。
■もちろん、「ヒトは なぜ こそだてするか?1」で心理学者 岸田秀さんの指摘を紹介したとおり、儒教イデオロギーなどが「親孝行」を徳目の中心にすえてきたなど、イデオロギー上のささえも無視できない。■「そだててもらった恩義」を 「かえきしれない心理的負債」としてしょいこんだ次世代が、反抗期・自立期をへながらも、自分もこそだて世代にいたると、「オヤの負担」をとらえかえすようになり、「オヤの老後の面倒をみる義務がある」とかんがえるようになる。■「オヤの負担感がいかにおおきいか」という無言の呪文は、まご世代をそだてるにいたったコドモ世代の「改心」「反省」によって、「孝行」という倫理徳目をはたさせるにいたる。つまり、儒教イデオロギーが十全に作動すると
(笑)。
■1世代30年前後として、3世代目が乳幼児期をおえるころ、第1世代は60代後半になり、急速に老化をすすめる。乳幼児と同様に介護をうけないとたちかない層もうまれる。■もちろん、平均余命の水準の変動や結婚・育児期の変動も時代・地域・階層などによってことなるだろうが、平均的には第3世代=まごが乳幼児期に少々育児協力をおこなった第1世代が、その後急速におとろえて、要支援者になるという、みごとな世代交代が想定されているとおもわれる。■ピンピンしていた人物が急死するといった事態をむかえないかぎり、こういった「平均的3世代間交代劇」を軸にライフ・コースがすすむというわけだ。■孔子・孟子のころに70歳を優にこえる古老はさほどおおくなく、ながわずらで、ねこむ時間もすくなかっただろうから、こういったライフ・コースを平均像として「孝行」を主張した先見性は、なかなかするどいというべきだろう(笑)。
■ただ、こういった「老後はコドモのうちだれかが、自分の面倒をみてくれるはず」といった想定=保険として育児をしているとは到底おもえない層もいるわけだ。■18才で自立年齢と位置づけて、それ以降はコドモと別居状態で、3世代家族の形態をとることがすくない、アングロサクソン系の家族形態などがその典型だ。■儒教イデオロギーみたいな「オヤの愛育→親孝行」といった正当化をおこなう集団ばかりではないので、「恩着せがましく孝行イデオロギーを注入し、老後の保険とする(国家の福祉政策などはアテにしない)」といった人生観が古今東西普遍的であるかのように、育児を位置づけるのは、おそらくハズしている。■ヘヤー・インディアンのオヤコ観は、ちいさいときから自立を前提にしているしね。かれらが老後の面倒をみてもらおうなんて、かんがえているとは到底おもえない。近代的な福祉社会を前提にしていないけどね。

■こうかんがえてくると、ヘヤー・インディアンなどの かわいた人生観はともかく、本能的ではないはずの、ヒトの育児行動は、非常に神秘的にみえてくる。■もちろん、「いきおい」とか、「まわりもそうしている」とか、「オンナとしてうまれたからには」といった、思想性を感じない動機で、なりゆきが支配しているものなのかもしれない。
■ただ、現代人、とりわけ都市部の住民にとっての育児行動は、①「育児をまっとうして はじめて十全な人生である」「社会に次世代をおくりだすことこそ、社会人の責務」といった、生物学的な神学イデオロギー〔「異性愛者による宿命的産物」……〕、②ペット飼育とほぼ同質の、さびしさの補償や女性の自己実現の対象としての、マゾヒスティックな負荷、③人生の「やりなおし」、前半生のリセット、人間的成長といった人生論的イデオロギーの実践(たとえば「こそだては、自分そだて」など)、④教育者が過去の精神的虐待を世代交代するかたちで「あだうち」しようという、サディズム〔関 曠野さんの議論」など〕の、いずれもみのがせないとおもう。
■そして、ここに通底している共通点は、「自分のてもとに ひよわで無力な弱者においておきたい」という、⑤マゾヒスティックな感覚と、⑥育児の一部があきらかに権力行為であること(しつけや緊急事態など)に対するサディスティックな支配欲求=充実感/満足感である。
■ヘヤー・インディアンのような、さばけた、趣味の一種としての育児みたいな例外はあるかもしれないが、以上あげたような、サディズム/マゾヒズムと無縁な育児が、それほどあるだろうか?■あまりない気がする(笑)。■なぜなら、実際のコドモは、オトナのつごうなど勘案せず、「わがまま」にいきつづけるし、その「わがまま」と チャンと おつきあいして、最終的にキレずにそだてあげることが、ごくあたりまえと、おもわれて(だまされて)きたから。■コドモの「わがまま」ぶりは、到底「精神修養」不充分な凡夫凡婦が、ニコニコわらってすませられる次元でない(笑)。■つまり「攻撃性」を誘発しつづけるのである。そして、「幼児図式(Kindchen-Schema)」が、攻撃性を封印しきれなくなったとき、解発因が作動し、心身への暴力がふきだすのだろう。■なにしろ、私的な「社会学的密室」内部にかかえこんだ「ひよわで無力な弱者」なわけだから、キレかたが限度をこえれば、殺人・傷害致死にいたることはさけられないし、刑法で規制しようにも限度がある。
■こうしてみてくると、各種育児イデオロギーの機能とは、育児を成功させるための、集合無意識的な産物というより、虐待や殺人をしでかさないための「悪魔の封印」装置なのかもしれない。■本能がこわれたヒトが、動物より何十倍も負担がおもい育児をつづけさせるための宗教〔マルクスのいうアヘン=イタミどめ〕なのかもね(笑)。
【テーマをきりかえて、つづく】

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