■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載【リンクは、ハラナによる追加】。■シリーズ第3回。

【シリーズ記事】「転載:枯葉剤機密カルテル1」「

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世界の環境ホットニュース[GEN] 586号 05年06月06日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第3回)
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枯葉剤機密カルテル          原田 和明

第3回 ベトナム戦争

今回は当時の時代背景としてベトナム戦争の歴史をおさらいします。

1955年、南ベトナム米国の支援を受けたゴ・ディン・ジェム首相が大統領に就任、ベトナム共和国が建国されましたが、腐敗と圧制のため政情は安定せず1960年には北ベトナムに指導された南ベトナム解放民族戦線(通称・ベトコン)が結成されました。ジェム大統領は61年に米国と軍事援助協定を締結、南ベトナムに米国から大量の武器弾薬、戦闘機、輸送用航空機などとともに多くの生物化学兵器も持ち込まれました。枯葉作戦は早くもこの段階から始められました。
1964年8月、トンキン湾で 米海軍の駆逐艦への 魚雷攻撃事件(トンキン湾事件)が勃発、その報復を口実に米軍は北ベトナムの魚雷艇基地に対して、朝鮮戦争以来となる大規模な軍事行動を開始、米上下両院は事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を可決、「アジアへの不介入」原則は簡単に破棄され、ジョンソン大統領への戦時大権を承認して本格的介入への道が開かれたのです。しかし、トンキン湾事件は後に暴露された米国防総省の機密文書・ベトナム秘密報告(ペンタゴン・ペーパー)によると、ベトナム戦争への本格的介入を目論む米軍が仕組んだ自作自演であったことが明らかにされました。

対するベトコンは南ベトナム各地でゲリラ活動を活発化、ついに 65年2月ブレイクの米軍基地を爆破、米兵に多数の犠牲者がでました。ジョンソン米大統領は即日、報復として首都ハノイなど 北ベトナムの中枢への空爆(北爆)を承認、3月には海兵隊ダナンに上陸、ついに米国は中国ソ連の支援を受けた北ベトナムと泥沼の戦争にのめり込むことになっていったのです。以後米軍は戦闘機爆撃の他、最新鋭のボーイングB-52大型爆撃機を投入、ベトナム全土に投下された爆弾の量は第二次大戦の数倍にも及びました。

空爆を繰り返す米軍に対し、北ベトナムはカンボジア国境の山岳地帯にホーチミンルートと呼ばれる補給路を建設して縦横無尽のゲリラ戦を展開、南ベトナムの首都サイゴンで爆弾テロ事件が多発しました。

米軍が大量の枯葉剤を発注した1967年は、50万人もの米兵が投入されたものの、4月に ニューヨークで大規模な反戦デモ行進が行なわれ、さらに米国政府は莫大な戦費調達、米兵の士気の低下、マスコミの反戦報道などで苦境に立たされていた時期でもありました。「北爆」こそが戦況打開の切り札と主張し、更なる「戦争の拡大」を提案する米統合参謀本部に対し、ジョンソン米大統領は底なしの戦線拡大は無間地獄に気づいたのもこの時期でした。このように米国がベトナム政策に行き詰まり、ジョンソン政権の団結を漸次引き裂いていった時期に登場したのが「枯葉作戦」でした。

1968年旧正月を期してベトコンは南ベトナムの米大使館を攻撃、主要都市すべてと数十の地方都市を占領(テト攻勢)、3日後には 米軍が鎮圧したのですが、米国大使館が一時的にもベトコンに占拠される事態は全米に強い衝撃を与え、米軍がベトナムで勝てないことを印象づける政治的効果は絶大でした。

1969年1月にジョンソンに代わって大統領になったニクソンは 米国内の反戦世論を沈静化させるために、ゲリラ戦で人的被害の大きい地上軍を削減する政策を選択、夏に公約通り 2.5万人の米兵を撤退させました。そこで復活したのが枯葉作戦です。再び本格化して散布量は67年の水準に戻っています。

楢崎の枯葉剤国産疑惑追及はこのタイミングに行なわれたものでした。70年8月、生物化学兵器の全面禁止を規定したジュネーブ条約批准を議会に迫られたニクソンはベトナムで使用し続けていた枯葉剤・催涙ガス・ナパーム弾は条約に含まれないことを条件に了承、枯葉作戦は継続されました。しかし、それも長くは続かず、71年春に枯葉作戦は全面停止されました。

テト攻勢で不利になった状況を挽回して和平交渉を少しでも有利にしようと、ニクソンは 隣国カンボジアにクーデターによる親米政権を誕生させ、70年4月、新政権に暗黙の了解を得て ホーチミンルート破壊のためカンボジアに、71年2月にはラオスに侵攻しました。しかし、破壊したルートは早々に復旧されてしまい、作戦は失敗、そして副作用としてカンボジア内戦が勃発しました。

南ベトナムの共産化は 隣国に次々と波及して 東南アジアの共産化が進むとする「ドミノ理論」により米国は介入を本格化させていったのですが、実際に波及したのは内戦による混乱でした。

1971年6月、ニューヨーク・タイムズ紙が ベトナム戦争における米政府の陰謀や内幕を暴露した米国防総省機密文書である「ベトナム秘密報告書」のスクープ連載を開始、反戦運動が益々高まると、これ以上の戦争継続は困難とみたニクソンは72年2月に中国を電撃訪問して、和平の道を開き再選を果たしました。73年1月にパリ和平協定締結、これに基づき 3月に米軍が全面撤退を完了しましたが、北ベトナムは米国の再介入を恐れ南ベトナムへの大規模な軍事行動は控えていました。その間、ニクソンはウオーターゲート事件で躓き、74年8月に 辞任に追い込まれました。

米国政府のベトナムへの関心がなくなったとみると、75年3月、北ベトナム軍は軍事活動を開始、南ベトナムのグェン・バン・チュー大統領は米国に支援を要請したものの 米議会は米軍派遣はおろか、軍事援助も拒否、4月30日ついに南ベトナムの首都サイゴンが陥落しました。この際北ベトナム軍は米国の要請を受け入れ攻撃を中断、その間残留米国人、政府要人とその家族は沖合いで待機する米空母に脱出、欧米諸国は政府専用機による救出活動を行ないました。残留日本人は米軍に救出を拒否され、また日本政府の救出活動もなかったため、大混乱のサイゴンに取り残されることとなりました。

首都陥落により南ベトナム政府は無条件降伏を宣言、ついにベトナム戦争は終結したのです。
【つづく】