■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載【リンクは、ハラナによる追加】。■シリーズ第4回。

【シリーズ記事】「転載:枯葉剤機密カルテル1」「」「

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世界の環境ホットニュース[GEN] 587号 05年06月08日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第4回)
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枯葉剤機密カルテル        原田 和明

第4回 枯葉作戦

枯葉作戦について、中村梧郎は「母は枯葉剤を浴びた」(新潮文庫 1983)の中で次のように記しています。

――米空軍によるベトナムでの枯葉作戦は1961年に始まった。ベトナムのジャングルや田畑に航空機から化学薬品を浴びせかけ、解放勢力の食糧源と拠点を壊滅させるのがその狙いとされていた。

作戦は10年あまりの間休みなく続き、1971年に終わった。
ベトナムの広大な原生林は 枯れ、動植物も 死に絶えた。土壌中の微生物さえ姿を消して土が死んだ。そして地上は沙漠化した。
ベトナムの枯葉剤散布地に私が初めて足を踏み入れたのは1976年のことである。
マングローブ樹のジャングルは朽ち果てたまま、死の世界をさらしていた。
だが、枯葉剤の被害は、こうした生態系の破壊にとどまらなかった。ベトナムの地上には無数の人間が住んでいたし、人々はこの化学物質を頭から浴びせられていたのである。
人間への影響は、作戦が終わりに近づく頃から顕在化し始める。様々な皮膚炎、癌、そして出産異常。枯葉剤の中には猛毒ダイオキシンが潜んでいたのであった。――
当初、米軍は米国に対する国際的批判を回避するために散布に使用した米軍機を南ベトナム軍機に 見せかけるよう偽装し、散布した枯葉剤は 無害である〔と〕ゴ・ジン・ジェム大統領に宣言させました。

枯葉剤を使うすべての作戦は、米南ベトナム援助軍司令部(MACV)と在南ベトナム米大使館とで決められていました。南ベトナム政府は枯葉作戦の目的と自らの役割を次のように示していました。

「穀物を破壊し、周辺道路と軍駐屯地周辺の見通しを
確保し、これらの作業を監視するために枯葉剤を使用
する計画について、調査し、資料を収集し、処理する
ことに責任を負う。」

1961年から64年にかけては 枯葉剤の散布は 米軍の輸送路と基地周辺に小規模に行なわれ、散布手段も主にヘリコプターでした。しかし、ベトナム戦争に米国が本格介入した65年以降、散布量、散布面積ともに激増しました。散布対象がベトコンの活動拠点や その周辺の山間部へと 拡大されたのです。(レ・ガオ・ダイ「ベトナム戦争におけるエージェントオレンジ」文理閣2004)

米軍がベトナム戦争で使用した化学兵器の中で、枯葉剤と呼ばれるものだけでも数種類あり、容器の色で区別されていました。ダイオキシンが含まれていることで有名になった245T、24Dの混合物はオレンジ色の容器に入れられていたのでオレンジ剤と呼ばれました。

オレンジ剤の他にもホワイト剤(24Dとピクロラム)、ブルー剤(カコジル酸)などが 大量に散布されました。森林の破壊には 3度の散布が必要で、1回目には葉を枯らすためにオレンジ剤か ホワイト剤、2回目に幹や枝を枯らすために同じ薬剤、3回目には 木の根を枯らすためにブルー剤が使われました。枯葉剤に引き続くナパーム弾焼夷弾)投下とガソリンによる燃焼によって森林は不毛の地となりました。

米国防総省によると、ベトナム戦争中に使用された枯葉剤の量は6665万リットル(1758万ガロン=9万トン)ですが、全米科学アカデミーによると、米国防総省の発表よりも実際は100万ガロン多かったとの試算もあります。

人類史上最大の環境戦争となった枯葉作戦には多くの反対にあいました。米国科学振興協会が1966年以来、懸念を表明し続けていましたが、1968年に全米癌協会の協力による研究でオレンジ剤の成分245Tに催奇性があることが判明、同時期には南ベトナムでのオレンジ剤散布地域に多くの先天奇形が見出されているとの報道がなされていました。

1969年には米国立癌研究所が245Tの催奇形性の原因は不純物ダイオキシンのためであると発表、1969年10月、米政府は人口密集地での枯葉剤使用を制限する声明を出し、70年4月に 米国内での農業に245T使用中止を決定しました。年末になってニクソンが翌春までに枯葉作戦中止を発表、米軍による枯葉剤散布は71年4月に中止されました。しかしながら、使い切れなかった枯葉剤は 南ベトナム政府軍に引き継がれ、散布はその後も継続されました。

1962年から70年の間に、少なく見積もっても 200万ヘクタール以上の地域に枯葉剤が散布され、その広さは 南ベトナム全土の1/8に相当し、さらに 単位面積あたりの散布量は平均して米国農務省が農業用として推奨している量の15倍にも及んでいました。(英紙タイムズ1970.12.28)

その上、ダイオキシンの問題があります。オレンジ剤中のダイオキシンは 1キロリットルあたり平均で4gと見積もられていますが、不純物濃度は製品毎にばらつきがあり、総量で170-500kgと推定されています。さらに枯葉剤を散布された森林は散布後ナパーム弾で焼かれたためダイオキシン濃度がさらに上昇したと推定されます。

戦争が終わって、大量の化学兵器が使用されたベトナムで新しい世代に奇形が多発しはじめたことが明らかになってきました。そしてその被曝症状はベトナムの人々はもとより、米国の帰還兵の間にさえ現れはじめていました。散布作業に従事していた 空軍兵士たち、あるいは 散布後の森に掃討作戦で入った海兵隊員たちなどが直接、間接に被曝*していたのです。

さらにベトナム参戦国軍として米軍と行動を共にしたオーストラリア、ニュージーランド、韓国、フィリピン、タイなどにも問題は広がっていました。それは核兵器による放射能障害にも似て、化学兵器のもう一面の本性をのぞかせるものでした。しかもそれは過去のできごとでなく、現在進行しつつあるのです(中村梧郎「母は枯葉剤を浴びた」(新潮文庫1983)

枯葉作戦は 公式には「ランチハンド(牧場夫)作戦」と 命名されていました。まるで牧場に農薬を撒く作業であるかのような命名ですが、作戦を進める米空軍の内部では「ヘイディーズ(地獄)」**と 呼ばれていました。まさに 枯葉作戦は地上に地獄を作り出す作戦でした。

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* これは「被爆」のはず。「被曝」は放射線をあびること。
** ギリシャ語 Hades(地下界・冥府)