■以前、「団体の公益性」という文章で、いわゆる「北朝鮮バッシング」の一環として「在日朝鮮人」関連の施設への右派的攻撃がくりひろげられており、裁判所まで、それを正当化する始末であることを、批判した。■朝鮮労働党のこれまでのあやしげな謀略や人権侵害はそれとして、いつもその「てさき」として策動しているはずがない「在日朝鮮人」を標的にした攻撃は、みぐるしいし、団体の公益性という意味からも、二重の基準をふりまわす、実に卑劣なふるまいといえる。
■今回は、その急先鋒もといえる、石原 都政の犠牲となっている民族学校の問題を『JANJAN』から転載。■一部、リンクをかってに追加。

東京・枝川裁判からみる、平和と民主主義 2006/06/27

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 今、東京・江東区にある朝鮮学校が存亡の危機に直面しています。これまで東京都と都有地の無償賃貸契約を結んでいた学校が、契約期限切れを理由に土地の明け渡しと地代(4億円)の請求を求められ、裁判になっているからです。


 この事件の背景には、拉致問題にからめた「制裁的」な石原都知事の意向と、それを見逃す都民の「反北朝鮮感情」が巧みに利用されているような気がします。土地を引き渡せば学校の消滅は間違いなく、今年60周年を迎える学校を平然とつぶし、子どもたちの教育を受ける権利を奪おうとする都の姿勢に驚きと怒りの声が上がっています。

 25日に、江東区文化センターで開かれた「枝川朝鮮学校を応援する集い―とりあげないでわたしの学校―」という集会に参加してきました。この日の集会は、「テポドン発射」が噂されるなかにもかかわらず、会場に入りきれないほどの熱心な支援者もたくさん来ており、熱気に溢れかえっていました。

 民族衣装をまとった小学生たちの踊りと歌が披露され、子どもたちの挨拶には会場から暖かく大きな拍手が鳴り止みませんでした。学校を支える募金活動でスクールバスの贈呈式が行なわれるなど、運動も順調に広がりを見せ、日本が進めようとしている「日の丸」「君が代」一色に染めあげようとする偏狭な管理教育へ警鐘を鳴らす運動として注目されます。

 映画『バッチギ』の上映と井筒監督を迎えてのトークは、私たち日本人が北朝鮮と朝鮮民族学校にいかに無関心だったかをあらためて感じさせてくれるものでした。注目すべきことは、この問題に関して韓国からの取材が相次ぎ、韓国の市民たちによる「対策会議」が開かれるなど、国際的な人権・人道問題として関心が拡がっていることです。

 「平和」と「民主主義」が危うくなっているような時期に運動に加わる人たちが着実に増えていること、そして環境問題であれ教育の問題であれ、平和と民主主義の問題と深く係わりを持っていることが、日本でも韓国でも認識され始めているという実感を持ちました。

枝川問題に関する詳細はこちら

(小原紘)

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枝川裁判 リンク集

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■「ナショナル・スクール」とか「インターナショナル・スクール」といった教育機関は、それこそ思想信条の自由という基本原則にのっとって、不介入が前提であるはず。■さらに、非営利団体への優遇措置がつづけられきたのであれば、それを急にはずすというのは、単なるいやがらせにすぎない。この点については、前回かいたので、これ以上のべない。■ともかく、民族性へのこだわりについて、周囲がとやかくいうのは、どうか主義的なおせっかいであり、基本的には言語権を不当にふみにじらないよう、関係者の冷静な対応をのぞむ。
■「日本に定住している以上、文部科学省が公教育として認可する日本語による学校でまなぶのは当然」といった発想は、かなりはずかしい。■そういった時代錯誤な「言語教育思想」を主張したいのなら、何十年いても日本語がはなせるようにならない欧米系の人物の育児にも「平等に」介入するんだね。二重の基準をつかいわけないこと。

■いうまでもないことだが、朝鮮労働党の動静と在日のコドモ世代は別モノなのであり、それを一緒に攻撃するとういう、オトナげないだけでなく、はずかしい行為は、あとあと禍根をのこすだけでなく、アジア問題をずっと解消させない策動として機能する。■石原氏や関係者は、政治思想の実践のつもりなのだろうが、単なる不勉強にもとづいた知的野蛮。後世ずっとわらいものになる(いますでに、わらいものだが)時代錯誤的反動だとおもう。
■このままだと、30年後も、「イヤなヤツら」という日本人評がつづきそうな、やりきれない気分にさせられる。チマチョゴリ切り裂き事件とかもふくめてね。■石原氏たちに批判をあびせることのない(当選させつづける)、民度のひくい(としか、おもえないが)都民の知的水準もちょっとねぇ。