■きのうから、かいている一連の文章のまとめ。■まぎれもない教育現象の一部なんだけど、本質をかんがえて、「国家/ナショナリズム論」に分類。

■最初に、気色わるいぐらい、右派の認識の精髄を表現している、便利な文章があったので、転載。


世迷言」2006年09月23日付 【『東海新報』】
 東京地裁が、教職員に国旗に対する起立、国歌斉唱の義務はなく、処分もできないという判決を言い渡したというのには呆れた。ことはこの問題にとどまらず、思想信条の自由の旗の下には何でも許されるということにつながろう▼判決のあった翌日の各紙社説を読んでみた。判決支持は朝日、反対は読売、産経、毎日はなし。もともと強制に反対していた朝日が、わが意を得たりとはしゃぐのは自由だが、「認識も論理もおかしい」(読売)、「公教育が成り立たぬ」(産経)というのが一般の反応だろう▼思想信条の自由はむろん尊重されなければならないが、強制なしに社会は成り立たない。もし強制反対の教師たちがその指導に従わぬ生徒に「先生の言うことを聞きなさい」と強制しても「これは思想信条の自由です」と反論されたらどうするのか。そんな言い分を認めていたら、教育などできっこない▼そもそもが国旗、国歌に反対するのは思想、信条の前に政治的意図が優先していることは明らかで、小欄の体験からすれば、小、中、高と学校でそんな論議などなかった。“異変”が起きたのは、日教組が先頭に立って反対を言いだしたあたりからである。それ以前の教師たちに思想も信条もなかったとは言い切れまい▼学校には校則が、社会には就業規則、服務規程等がある。それに違反すれば処分は免れない。それがいやならやめればいい。それこそが自由というものである。「“強制は違憲”の重み」(朝日)などと言っていると、自由はどんどん一人歩きするだろう。現実にそれをはき違えた事件が頻発している▼思想信条の自由という印籠を振りかざせば何でも許されるという風潮が、この裁判長の仕事も増やすようになることは間違いない。
■「思想信条の自由はむろん尊重されなければならないが」というのは、でまかせである。というか、日本国憲法を全否定するのもまずかろうという配慮からくるらしい、カムフラージュのための「意味なしマクラ」である。■かれらのホンネは、直後の「強制なしに社会は成り立たない」という、実におそるべき信念として端的に表現されている。

■かれらは、「そもそもが国旗、国歌に反対するのは思想、信条の前に政治的意図が優先していることは明らか」と、あからさまに非難めいたくちぶりだが、「そもそもが国旗、国歌への服従を強要するのは思想、信条の前に政治的意図が優先していることは明らか」という、真の意味での普遍的な正論がでてくる可能性をかんがえていない。■かれらにとって、「思想信条の自由」とは、自分たちにつごうのわるい
(という、自覚など、もちろんないが)、強制への不服従しか、イメージできないようだ。■いや、直感的にはそれはまとをいている。かれらのような強圧的な「国家主義という特殊な思想信条の強要に服従しない権利」こそ、「思想信条の自由」の重要なはしらだからね(笑)。
■「思想信条の自由という印籠を振りかざせば何でも許されるという風潮が、この裁判長の仕事も増やすようになることは間違いない」などと、皮肉めいたおどしをかけているが、かれらにとっては、保守オヤジたちが強制するムラの論理(=「伝統」とか「自然」とかいいはる「ヘリクツ」による非論理)に抵抗する、不服従でにげるといった、実に正当な権利さえも否定されるのだ。■ま、かれらの利害を根底からゆるがす意識・論理だし、あきらかに普遍的に妥当だしね。こわいんでしょ…(笑)。 ■かれらの不当な既得権益をおびやかす現象が続々とふえていることを痛感するからこそ、「自由はどんどん一人歩きするだろう。現実にそれをはき違えた事件が頻発している」といった、「世紀末(もうすぎてしまったけど)」とか「末法」とか、被害妄想的な無秩序イメージが、むくむく わきあがるわけだ。■ちゃんと再確認しておこう。「いきすぎ・自己矛盾などがないかぎり、造反有理である。」

■もちろん、「いきすぎ・自己矛盾」に無自覚な不服従もあるだろう。■たとえば、生徒たちが教員全体をこバカにして「おれたち納税者(まあ、財源が事実上ごっちゃになったいま、アルバイトしたこづかいをもつ生徒など消費税をはらっている以上、全員納税者本人だ)が、こいつらをくわしてやっている。公僕なんだから、こちらのいうことなんか、聞く耳持つ必要なんてない」って意識だ。■しかし これは、「中国共産党あたりにいれあげた左派系教員が生徒たちを洗脳した/扇動した」とかいった策動の結果ではない(笑)。■保護者の高学歴化や生活全体の高度消費社会の進展などが、教員という職種・公教育カリキュラムの地盤沈下をもたらした社会変動の、最終的な帰結なのだ。断じて、「思想信条の自由」「造反有理」といった、政治イデオロギーの注入の結果なんかじゃない。
■それが証拠に、日教組をはじめとした教職員の組織率は急速におちこんでいるじゃないか? 授業崩壊とか、さまざまな混乱は、まさに組合組織の急激な体力低下と時期が一致しているはずで、右派のみなさんは、この冷厳な事実をよーくおもいだすように(笑)。■でもって、組合の組織率・組織力が激減しているからこそ、東京都や沖縄県みたいな、もともとは左派系組合員ががんばっていた地域でも、日の丸・君が代強制がどんどん定着してきた昨今。■石原都知事をはじめとした右派のみなさんの、「わが世の春」じゃありませんか?(笑)
■「わが世の春」を謳歌している昨今、それにたった一撃だけくらっただけで、「世も末」みたいな、おおさわぎするというのは、あまりに わすれっぽすぎる。

■ちなみに、「強制なしに社会は成り立たない」という断定は、ほとんどカルト的信仰というか、社会原理のなんたるかが全然わかっていない、暴言。■本来的な「強制」ってのは、最終的には、警察組織や軍隊が出動して、「実力」で「排除」「撤去」「没収」されるような、国家が独占する暴力装置の担保とか、ヤクザ組織に完全に軟禁されて事実上奴隷化した存在のありようとかをさす。小中高校など公教育にもちこんで当然というのは、あまりに野蛮というか、トンチンカンなヘリクツによる、おどし。■ちなみに、「学校には校則が、社会には就業規則、服務規程等がある。それに違反すれば処分は免れない」などと すごむが、じゃなにかい? 「校則をやぶった小中学校の生徒は公立であろうと、退学・放校」か?
■それにしても、「それがいやならやめればいい。それこそが自由というものである」って、おどしには、まったく知性も品性も感じられないね。■形式論理の水準でだけ、もっともだから、たちがわるい。自分たちで「土俵」全部くんでおいて、おりづらくしてしまったうえでの、「自己責任」論だからね。
■もちろん、世間を支配しているクソおやじたちのうすぎたない「土俵」からおりてしまう気概さえあれば、国家主義的なイデオロギーをふくめて完全拒否するために、学校にいかないって選択肢もありえる。滅茶苦茶ハイリスクだけど。■義務教育ってのは、児童が被教育者として教育を強制される義務をおうって理念じゃないからね。「いく意志/精神/体力がそなわっているのに、保護者がいかせないとか、就労させたりしてはいかん」という理念にすぎないし、保護者たち自身を実刑で拘束するような刑事罰はないはずだ。

■もともと、先日の東京地裁での難波孝一裁判長の判決文は、「処分ちらつかせて、違和感を封殺するような体制は、違憲ですよ」っていう、ごく穏当な水準にすぎない。■それを、ものすごくアナーキーで容共的な判決がでたみたいな過剰な反応がでる方がヘンだ。くりかえしになるが、近年 日の丸・君が代の強制政策はどんどん定着して、もともと組合がつよく抵抗がなされていた東京都や沖縄県みたいなところでも、掲揚/起立率100%にちかづいたじゃないか? ■要は、右派さんたち おのぞみの、かくれたファシズムが成立しているわけで、小中高校現場で(ま、首都大学〔首大〕にかえられた都立大もそうか?)「思想信条の自由」なんて死文化しつつあるわけだ。■「わが世の春」を謳歌しているはずの右派さんたちが、ちょっと一撃くらったぐらいで、おおさわぎするってのは、なんなのだろうね。そんなに、「思想信条の自由」理念がこわいのか? そうなんだろうね。自分たちの横暴をとおしているのも、議院内閣制やら官僚制で正当化された「思想信条の自由」の悪用なんだけど、うちらみたいな左派もウヨウヨわいてくるわけで(マルクスか?)、いつデマカセが暴露・粉砕されるか、気が気じゃないんだろう(笑)。

■それにしても、こうまで何重にも破綻した論理の陳列にもかかわらず、「昨日の産経よりも読売よりもイイ。完結で完璧。」とか、いっちゃっている日記がある(笑)。■「完結で完璧」じゃなくて、「完璧に完結(おわっちゃってる)」でしょ?〔「漢字大好き」だろう右派のみなさんが「簡潔→完結」と変換をしそこねている様子もいたいたしい(笑)〕



■もし、これらの右派の反応に、一点だけ、よみとる論理があるとすれば、公教育の相当部分が、カリキュラムや理念の強制・注入にすぎないんだ、という知識社会学的・教育社会学的な客観視が、リベラル派・左派に希薄な点。■右派さんたちが「強制反対の教師たちがその指導に従わぬ生徒に「先生の言うことを聞きなさい」と強制しても「これは思想信条の自由です」と反論されたらどうするのか。そんな言い分を認めていたら、教育などできっこない」とすごめるのは、リベラル派・左派の大半が無自覚な体制的人格だという現実=偽善性をうまくついているから。■もし、「自分たちは思想的な強制などしていない」と本気で信じているなら、おしえているカリキュラム内容や生徒指導の細部が、全部合理的に生徒のなっとく・合意にのっとっているか、かえりみるとよい。■大学の文科系学部のように、学生のアラカルトで、自己責任で履修できるよう、事実上「放牧」されているような教育空間(究極は「放送大学」)以外、強制は遍在している。その自覚がないかぎり、右派からの非難は、残念ながら、別の意味で妥当性をおびてしまう。■教育から、あからさまな国家主義イデオロギーがぬぐいさられれば、「リベラルな知的空間」が即誕生するといった夢想は、ひとりよがりであり、生徒・学生に、バカにされる。
■第一、自由選択っていったって、就職・進学っていう、外部からの圧力ぬきに、選択肢がえらばれるはずないんだし。■先生方の「きみたちの選択肢は、ここまでの範囲ね」という善意は、お医者さんが患者にむかって「えらべる治療は、これとこれだけです」って、せまっているのと同形なんだ。


Google検索結果「難波孝一裁判長」←ちなみに、難波孝一氏、全然左派なんぞではないそうだ。リベラルでさえないとか(笑)