■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載【リンクは、ハラナによる追加】。■シリーズ第25回。■いつもどおり、ハラナがかってにリンクをおぎなっている。

【シリーズ記事】「転載:枯葉剤機密カルテル1」「」「」「」「」「」「」「」「」「10」「11」「12」「13」「14」「15」「16-7」「18」「19」「20」「21」「22」「23」「24


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界の環境ホットニュース[GEN] 610号 05年09月30日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第25回)     
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

枯葉剤機密カルテル(第25回)     原田 和明

第25回 化学兵器・ダイオキシン

ダイオキシンは化学兵器になりうると米軍が考えるようになったのは 1952 年のことで、まだその当時は物質をダイオキシンと特定できてはいませんでした。米軍が注目することとなったのは米国の巨大化学企業・モンサント社で起きた除草剤245T工場での事故がきっかけでした。

モンサント社は1940年代からウエストバージニア州ナイトロの工場で245Tの生産を始め、創業当初から従業員に湿疹、原因不明の痛み、虚弱、イライラ、神経質、性欲減退などを伴った症状が現れています。モンサント社はそのことを隠したまま操業を続け、1949年には 爆発事故が発生、900人近い被害者がでています。身体異常を引き起こした汚染物質がダイオキシンと判明したのは1957年ですが、米軍化学部隊は汚染物質が特定される前から、このダイオキシンが化学兵器になりうるとして関心をもつようになりました。
「セントルイス・ジャーナリズム・レビュー」誌が米国情報公開法に基づき要求した文書によると、除草剤の副生物に関するモンサントと米軍化学部隊との交信記録や報告書は 600ページにも及び、1952年までさかのぼることが明らかになっています。(エコロジスト誌編集部「モンサントファイル」緑風出版1999)
ダイオキシン関連の事故は除草剤PCP、245T工場で頻発していました。被災者が多い主な事故を列挙すると以下の通りです。

年次   企業名(国)           被災者数
1949年  モンサント(米)       884
1952年  ベーリンガー(独)       60
1953年 BASF(独)           247
1956年 ダイヤモンド・アルカリ(米)   73
フッカー・ケミカル       不明
ローヌ・プーラン(仏)       17
1963年  フィリップ(蘭)          141
1964年  ダウケミカル(米)      2192
1966年  スポラナ(チェコ)       不明
1968年  コアライト(英)         79
三井東圧化学(日)        35
1976年  イクメサ(伊)       735(Aゾーン)
4699(Bゾーン)


1976年のイタリアの事故は「セベソ事件」で、ベトナム戦争を別格とすると、日本の「カネミ油症事件」(1968年)、「台湾油症事件」(1979年)と並ぶ大規模ダイオキシン汚染事件のひとつです。1964年のダウ・ケミカル社の事故はこれに次ぐ大事故でした。

米軍化学部隊がダイオキシンの化学兵器利用可能性について気がついたと考えられる1952年はドイツで事故が起きています。

1952年、西ドイツのベーリンガー社では245T工場で体の異常を訴える労働者が次々と現れたため、工場を停止してハンブルグ大皮膚科医師シュルツや同社の科学者ゾルゲらに原因究明を委託しました。その結果、原因物質は245TCP工程で生成する ダイオキシンであることが 判明したのです。ベーリンガー社は245TCPの合成温度を下げるなどのプロセスの改良と工場の手直しを行い、1957年に操業を再開しました。このとき、シュルツはこのことを雑誌に投稿しましたが、ゾルゲは会社から発表することを止められました。そして西ドイツ政府もダイオキシンの危険性を知りつつ、何の警告も発しなかったので、シュルツの出した1ページにも満たない速報論文は多くの人の注意を引くにいたりませんでした。(河村宏・綿貫礼子「毒物ダイオキシン」技術と人間1986)

ベーリンガー社の研究結果発表禁止措置といい、西ドイツ政府の不作為といい、米軍化学部隊が注目していたという事実によって意図的に秘匿されたと理解できる話です。

モンサント社はこれらの事実を米軍化学部隊との情報交換の中で当然知りえたことでしょう。その上で、高濃度のダイオキシンを含む除草剤245Tを米軍に売り込んだのです。

ところで、モンサント社と並ぶ大手枯葉剤供給メーカーであるダウ・ケミカル社はモンサント社とは異なる販売戦略を立てていました。製品中から極力ダイオキシンを減らした除草剤245Tを供給しようとしたのです。そのため、後にベトナム帰還兵とその家族が起こした、いわゆる枯葉剤訴訟でモンサント社はダウ・ケミカル社よりも枯葉剤の供給割合は小さかったにも拘らず、被告企業の中で最も重い和解金支払いを命じられています。

三井東圧化学が「除草剤(枯葉剤)中のダイオキシンの存在を知っていて減らした」と横浜国大・中西教授は指摘しましたが、そのオリジナルアイデアはダウ・ケミカル社のものでした。ダウ・ケミカル社は自社の枯葉剤からダイオキシンを減らしつつ、世界中に枯葉剤供給ネットワークを構築し、米軍に最も多くの枯葉剤を供給していました。ダイオキシンの化学兵器への応用を視野に入れていた米軍はなぜダイオキシンを減らした枯葉剤を受け入れたのでしょうか? 次回はダウ・ケミカル社の戦略に迫ります。

------------------------------------------
■ま、格闘技なんていうのは、ちからいっぱい攻撃しなかったのに、あいてがはげしい衝撃をうけている様子にきづいたといったことがきっかけで急所が解明されていったのだろう。■おなじように、兵器は、なんらかの事故が劇的に被害をもたらした経験が蓄積・体系化してできたのだろう。■その意味では、ダイオキシンの破壊力に「米軍が注目することとなったのは米国の巨大化学企業・モンサント社で起きた除草剤245T工場での事故がきっかけ」だったというのは、ある意味宿命的な事件だったのだろう。■しかし、被害者がでたことをもって、それを軍事的に利用できるとかんがえるとは、なんと品性下劣なことか。


●日記内「ダウ・ケミカル関連記事一覧
●日記内「モンサント関連記事一覧