■きょうは、坂口安吾生誕100年目にあたる。ま、安吾は「はやじに」だったので、なくなって半世紀以上たってしまっているが。
■ひさしぶりによみかえしてみたら、おもしろかったんで、少々おぼえがきをかいていく。

■『正直正太夫の時評』の「健全な反日思想」でもふれられているが、「日本文化私観」にかかれている、「伝統文化」論や天皇制論とかは痛烈だ。■そして、安吾といえば、おもいだされるだろう「堕落論」などが、大反響をよんだというんだが、ちょっとびっくりさせられる。いや 左派系の、あるいは左派的思想の洗礼をうけた保守主義者=転向派だったら、別におどろきもしないだろうが、そうでない「よい子」のみなさんにとっては、充分現在でも「毒ガス」的にうけとめられるとおもうからだ。■たとえば、「堕落論」の冒頭部分のつぎのような一節を、テレビ画面でタレントがくちばしったら、どういったことになるか、想像してみるとよい(笑)。

 半年のうちに世相は変った。醜(しこ)の御楯(みたて)といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋(やみや)となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌(いはい)にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。
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 この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使徒の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。
 いったいが日本の武人は古来婦女子の心情を知らないと言われているが、之(これ)は皮相の見解で、彼等の案出した武士道という武骨千万な法則は人間の弱点に対する防壁がその最大の意味であった

 武士は仇討のために草の根を分け乞食となっても足跡を追いまくらねばならないというのであるが、真に復讐の情熱をもって仇敵の足跡を追いつめた忠臣孝子があったであろうか。彼等の知っていたのは仇討の法則と法則に規定された名誉だけで、元来日本人は最も憎悪心の少い又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。昨日の敵と妥協否肝胆(かんたん)相照すのは日常茶飯事であり、仇敵なるが故に一そう肝胆相照らし、忽(たちま)ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。日本戦史は武士道の戦史よりも権謀術数の戦史であり、歴史の証明にまつよりも自我の本心を見つめることによって歴史のカラクリを知り得るであろう。今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就(つ)いて執筆を禁じた如く、古(いにしえ)の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった
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 私は天皇制に就ても、極めて日本的な(従って或いは独創的な)政治的作品を見るのである。天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、その陰謀は常に成功のためしがなく、島流しとなったり、山奥へ逃げたり、そして結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。社会的に忘れた時にすら政治的に担(かつ)ぎだされてくるのであって、その存立の政治的理由はいわば政治家達の嗅覚によるもので、彼等は日本人の性癖を洞察し、その性癖の中に天皇制を発見していた。それは天皇家に限るものではない。代り得るものならば、孔子家でも釈迦(しゃか)家でもレーニン家でも構わなかった。ただ代り得なかっただけである。
 すくなくとも日本の政治家達(貴族や武士)は自己の永遠の隆盛(それは永遠ではなかったが、彼等は永遠を夢みたであろう)を約束する手段として絶対君主の必要を嗅ぎつけていた。平安時代の藤原氏は天皇の擁立を自分勝手にやりながら、自分が天皇の下位であるのを疑りもしなかったし、迷惑にも思っていなかった。天皇の存在によって御家騒動の処理をやり、弟は兄をやりこめ、兄は父をやっつける。彼等は本能的な実質主義者であり、自分の一生が愉(たの)しければ良かったし、そのくせ朝儀を盛大にして天皇を拝賀する奇妙な形式が大好きで、満足していた。天皇を拝むことが、自分自身の威厳を示し、又、自ら威厳を感じる手段でもあったのである。
 我々にとっては実際馬鹿げたことだ。我々は靖国神社の下を電車が曲るたびに頭を下げさせられる馬鹿らしさには閉口したが、或種の人々にとっては、そうすることによってしか自分を感じることが出来ないので、我々は靖国神社に就てはその馬鹿らしさを笑うけれども、外の事柄に就て、同じような馬鹿げたことを自分自身でやっている。そして自分の馬鹿らしさには気づかないだけのことだ。宮本武蔵は一乗寺下り松の果し場へ急ぐ途中、八幡様の前を通りかかって思わず拝みかけて思いとどまったというが、吾神仏をたのまずという彼の教訓は、この自らの性癖に発し、又向けられた悔恨深い言葉であり、我々は自発的にはずいぶん馬鹿げたものを拝み、ただそれを意識しないというだけのことだ。道学先生は教壇で先ず書物をおしいただくが、彼はそのことに自分の威厳と自分自身の存在すらも感じているのであろう。そして我々も何かにつけて似たことをやっている。
 日本人の如く権謀術数を事とする国民には権謀術数のためにも大義名分のためにも天皇が必要で、個々の政治家は必ずしもその必要を感じていなくとも、歴史的な嗅覚に於て彼等はその必要を感じるよりも自らの居る現実を疑ることがなかったのだ。秀吉は聚楽(じゅらく)に行幸を仰いで自ら盛儀に泣いていたが、自分の威厳をそれによって感じると同時に、宇宙の神をそこに見ていた。これは秀吉の場合であって、他の政治家の場合ではないが、権謀術数がたとえば悪魔の手段にしても、悪魔が幼児の如くに神を拝むことも必ずしも不思議ではない。どのような矛盾も有り得るのである。
 要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから「節婦は二夫に見(まみ)えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない
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■天皇をカリスマとしてもちあげる諸層、日本のかえるべき理念としての「武士道」、女性の貞節といった、保守派のオジサマがたが すがってきただろう諸価値が、あっさり わらいのめされている。■わるガキをもって任ずる、ビートたけし とて、ここまでズケズケとはいわないだろう。
■いや、自民党をはじめとする保守政治家や財界のおえらいさんたちは、ホンネでは、この水準で爆笑・苦笑をくりかえしてきたのだろうとおもう。■しかし、そういった認識水準を、ご自分の奥方やら選挙民やら従業員のまえで、一席ぶてるかである。■きかされた方は、信じられないおもいだろう。キツネにつままれたような、理解不能といった表情をうかべて、当惑をかくさないか、少々ひきつった表情で、なにごともないかのように、とりつくろうおうとするかではないか?■それほど、安吾の批評は痛烈であり、なにより不敬・不貞にまみれている(笑)。

■60年まえに、これらの文章が発表されたときに、おおきな反響をよんだというのは、まさか、非難ごうごうっていうものばかりではなかったはずだ。■そして、安吾のかいた真意を完全に誤読してたのしんだ読者が大多数であったはずもなく、要は、こういった不敬・不貞な、ひらきなおり・諦観に同感する自由なふんいきが、そこにあったとみるほかない。

■とすればである。この60年間は、なんだったのか?■この程度の、冷静に日本列島史をふりかえれば、ごく自然にたどりつくだろう「達観」が、現在、不敬・不貞として、わるガキ、ビートたけし(北野武)でさえもテレビ画面などで、くちばしることがはばかられるような、こおりついたふんいきは、一体なんだ?■われわれ日本列島住民は、こういった安吾らの論調に全然おどろかない層が激増した反面、そういった話題を不謹慎なものとして、ひたすらタブー視する大多数に二極化するという、異様な空間を二世代もかけてくみたてたというのか?■それは、あまりにかなしくはないか?


■ちなみに、安吾が自覚していただろうに、あえてかかなかった点を整理しておこう。■「軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変り易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった」というが、あたかも女性たちだけが不貞であるかのようだが、そうでないことは、いうまでもない。
■彼女たちが、夫や恋人が不在のあいだ、同性愛者としてこっそり愛をはぐくんだとは想像しづらい。■そのおおくのケースにおいて、軍人兵士たちと同性のオトコどもが誘惑主体だったはずだ。そういった誘惑主体としてのオトコという「さが」をさまざまなルートをもって熟知し、いや自分自身が誘惑の欲望をかかえて、ときに不貞をおこなっていたからこそ、ここまで念のいった倫理規制をおもいついたのだろう。


●「健全な反日思想」〔『正直正太夫の時評』〕