■先日、安吾生誕100年の日にかいた文章の続編。■「日本文化私観」の一節から。


……
 日本の文化人が怠慢なのかも知れないが、西洋の文化人が「社交的に」勤勉なせいでもあるのだろう。社交的に勤勉なのは必ずしも勤勉ではなく、社交的に怠慢なのは必ずしも怠慢ではない。勤勉、怠慢はとにかくとして、日本の文化人はまったく困った代物(しろもの)だ。桂離宮も見たことがなく、竹田玉泉鉄斎も知らず、茶の湯も知らない。小堀遠州などと言えば、建築家だか、造庭家だか、大名だか、茶人だか、もしかすると忍術使いの家元じゃなかったかね、などと言う奴がある。故郷の古い建築を叩き毀(こわ)して、出来損いの洋式バラックをたてて、得々としている。そのくせ、タウトの講演も、アンドレ・ジッドの講演も聴きに行きはしないのである。そうして、ネオン・サインの陰を酔っ払ってよろめきまわり、電髪嬢を肴(さかな)にしてインチキ・ウイスキーを呷(あお)っている。呆れ果てた奴等である。
 日本本来の伝統に認識も持たないばかりか、その欧米の猿真似に至っては体(たい)をなさず、美の片鱗(へんりん)をとどめず、全然インチキそのものである。ゲーリー・クーパーは満員客止めの盛況だが、梅若万三郎は数える程しか客が来ない。かかる文化人というものは、貧困そのものではないか。
 然しながら、タウトが日本を発見し、その伝統の美を発見したことと、我々が日本の伝統を見失いながら、しかも現に日本人であることとの間には、タウトが全然思いもよらぬ距(へだた)りがあった。即ち、タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲(わんきょく)した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の眼から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑(びんしょう)が甚だ浅薄でしかないのである。彎曲した短い足にズボンをはいてチョコチョコ歩くのが滑稽だから笑うというのは無理がないが、我々がそういう所にこだわりを持たず、もう少し高い所に目的を置いていたとしたら、笑う方が必ずしも利巧の筈はないではないか。
 僕は先刻白状に及んだ通り、桂離宮も見たことがなく、雪舟雪村竹田大雅堂玉泉鉄斎も知らず、狩野派運慶も知らない。けれども、僕自身の「日本文化私観」を語ってみようと思うのだ。祖国の伝統を全然知らず、ネオン・サインとジャズぐらいしか知らない奴が、日本文化を語るとは不思議なことかも知れないが、すくなくとも、僕は日本を「発見」する必要だけはなかったのだ。
……
-----------------------------------------
■これは、ちょっとまえからはやっている「オリエンタリズム」批判であると同時に、「ディスカバー・ジャパン」やらといった、「古きよき日本の再発見」なるものへの批判でもある。■これが、日中・太平洋戦争まっただなかの1942年だということが、あまりにすごい。一見「日本人」なるものの実態視=本質主義的「ひらきなおり」にもおもえるが、このエッセイの最終部分をみれば、到底そういった次元にとまっていない。

……
見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。武蔵野の静かな落日はなくなったが累々たるバラックの屋根に夕陽が落ち、埃のために晴れた日も曇り、月夜の景観に代ってネオン・サインが光っている。ここに我々の実際の生活が魂を下している限り、これが美しくなくて、何であろうか。見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々(ごうごう)と駈けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞(はじ)ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。

---------------------------------------------
■この数年後、制空権(航空優勢)を米軍にうばわれて、戦略次第では京都奈良等の古都の寺社ほかの「文化遺産」が全焼してしまう危険性があり、かつまた農業生産・工業生産が致命的におしとどめられて、あらゆる空き地が菜園化した戦争末期・直後を予見していたかのような、皮肉をよみとってしまうのは、単なる「あとぢえ」か?■このアナーキーでニーチェ的なニヒリズムの健康すぎる現実主義はなんだ?■いずれにせよ、いかにもヤバく、不敬スレスレのこういった文章が、文芸誌(『現代文学』,『現代文學』)という媒体とはいえ、発禁にならずに当局からみのがされていたという事実は、驚異的なしぶとさを感じる。
■日々の生活をきりぬけるという、当局ものぞむ現実主義的ヤリクリはともかく、「我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ。我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞(はじ)ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越がある」とひらきなおられたとき、和魂洋才だの、東西文明の統合などといいはって、いきがってしまった当局や御用知識人たちは、安吾の痛烈な皮肉に「いいがかり」をつけるスキをみいだせなかったんだろう。痛快なはなしだ。

■坂口安吾の文章には、「本来の人間」といった本質主義的な人間観や、「そもそも農村に文化があるか」といった「暴走」気味の放言もあるなど、いろいろ問題をかかえているのだが、いまだ新鮮に感じさせられるところをみると、われわれ現代人は60年もかかりながら、一向にあゆみをすすめずにいる点、つまりは堂々めぐりをくりかえしている点を、みせつけられるおもいだ。

●「健全な反日思想」『正直正太夫の時評
●「青空文庫で安吾がよめる/『トリック』」『hituziのブログ 無料体験コース