■先日の「坂口安吾ノート2」にひきつづいて、「日本文化私観」の一節を引用。

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 僕は舞妓の半分以上を見たわけだったが、これぐらい馬鹿らしい存在はめったにない。特別の教養を仕込まれているのかと思っていたら、そんなものは微塵(みじん)もなく、踊りも中途半端だし、ターキーオリエの話ぐらいしか知らないのだ。それなら、愛玩用の無邪気な色気があるのかというとコマッチャクレているばかりで、清潔な色気などは全くなかった。元々、愛玩用につくりあげられた存在に極っているが、子供を条件にして子供の美徳がないのである。羞恥がなければ、子供はゼロだ。子供にして子供にあらざる以上、大小を兼ねた中間的な色っぽさが有るかというと、それもない。広東(カントン)に盲妹(もうまい)という芸者があるということだが、盲妹というのは、顔立の綺麗な女子を小さいうちに盲にして特別の教養、踊りや音楽などを仕込むのだそうである。支那人のやることは、あくどいが、徹底している。どうせ愛玩用として人工的につくりあげるつもりなら、これもよかろう。盲にするとは凝(こ)った話だ。ちと、あくどいが、不思議な色気が、考えてみても、感じられる。舞妓は甚だ人工的な加工品に見えながら、人工の妙味がないのである。娘にして娘の羞恥がない以上、自然の妙味もないのである。


※ 「中国には『盲妹』という因習があった。これは少女の両目を潰して芸者として育てるというもので、視覚による美醜を分からなくすることで客のえり好みをさせず、なおかつ旦那衆に頼らなければ生きていけない状態に追いこむという効果がある」〔ハラナ注:典拠は不明。ただし記述としては妥当だとおもう。〕
 僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。舞妓の一人が、そこのダンサーに好きなのがいるのだそうで、その人と踊りたいと言いだしたからだ。ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりは遥(はるか)に綺麗だ。満員の盛況だったが、このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋(しゃべ)っていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄(みば)えのしなかった舞妓達が、ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。
 同じことは、相撲(すもう)を見るたびに、いつも感じた。呼出(よびだし)につづいて行司の名乗り、それから力士が一礼しあって、四股(しこ)をふみ、水をつけ、塩を悠々とまきちらして、仕切りにかかる。仕切り直して、やや暫く睨み合い、悠々と塩をつかんでくるのである。土俵の上の力士達は国技館を圧倒している。数万の見物人も、国技館の大建築も、土俵の上の力士達に比べれば、余りに小さく貧弱である。
 これを野球に比べてみると、二つの相違がハッキリする。なんというグランドの広さであろうか。九人の選手がグランドの広さに圧倒され、追いまくられ、数万の観衆に比べて気の毒なほど無力に見える。グランドの広さに比べると、選手を草苅人夫に見立ててもいいぐらい貧弱に見え、プレーをしているのではなく、息せききって追いまくられた感じである。いつかベーブ・ルースの一行を見た時には、流石(さすが)に違った感じであった。板についたスタンド・プレーは場を圧し、グランドの広さが目立たないのである。グランドを圧倒しきれなくとも、グランドと対等ではあった。
 別に身体のせいではない。力士といえども大男ばかりではないのだ。又、必ずしも、技術のせいでもないだろう。いわば、伝統の貫禄(かんろく)だ。それあるがために、土俵を圧し、国技館の大建築を圧し、数万の観衆を圧している。然しながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。舞妓のキモノがダンスホールを圧倒し、力士の儀礼が国技館を圧倒しても、伝統の貫禄だけで、舞妓や力士が永遠の生命を維持するわけにはゆかない。貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。

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■安吾のキモノ論、相撲論、野球論が妥当かどうかは、留保しておく。また、性的対象(femme objet)として制度化された女性たちへの安吾のセクシズムの問題もここでは、おく。■しかし、舞妓(まいこ)さんたちの実態がロコツにさらされていて、興味ぶかい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

舞妓 (まいこ)は年少芸妓、芸子(芸妓)の見習い、修行段階の者を指す。舞妓は京都(大阪、奈良などでも)の呼称である。東京など関東地域でいう『半玉』もしくは『おしゃく』に相当する。芸者は江戸での呼び方なので、区別する必要がある。

京都の舞妓
古くは『舞子』と書き、かつては9?12歳でお座敷に上がり接客作法を学び、芸能など修業して一人前の芸妓に成長していたが、戦後は児童福祉法と労働基準法の改正によって現在は中学卒業後でないとなれない。

通例、半年から2年ほどの「仕込み」期間を経た後、1か月間「見習い」としてだらりの帯の半分の長さの「半だらり」の帯を締め、姐さん芸妓と共に茶屋で修行する。置屋の女将、茶屋組合よりの許しが出れば、晴れて舞妓として「見世出し」が可能となる。舞妓の初期は「割れしのぶ」という髪型で、2、3年後に「おふく」となり、芸妓への襟替え1?4週間前には「先笄」を結い、お歯黒を付ける(引眉しないので半元服の習慣が現代に残るものと見てよい)。襟替えの時期は20歳前後のようだ。

年齢が若いために見習いであるという建前から、衣装はかならず肩上げのされた振袖の着物を着る。ぽっくりの下駄にだらりの帯、という派手な格好もあるせいで、現在ではむしろ芸妓(芸子)よりも舞妓のほうが上方花街の代表的存在であるといえるかもしれない。座敷では主に立方を勤め、祇園甲部に限って京舞井上流、それ以外では若柳流などの舞踊を披露する。いずれの出身地にかかわりなく独特の京ことばを使うよう教育されるために、京都の象徴であるがごとくあつかわれることも多い。

本業は茶屋においての接待であるが、最近はテレビなどのメディアへの露出、養護施設や病院への慰問、海外への派遣の仕事も多い。かつて「一見さんお断り」の閉鎖的空間であった花街も、徐々に外に対して門戸を開いているようだ。 事実、舞妓のなり手がいない置屋では、インターネットを通して舞妓志望者を募るところもあるという。

現在、京都の花街で舞妓がいるのは祇園甲部、宮川町、祇園東、先斗町、上七軒の五花街である。最近はブームのせいもあってか、舞妓志望者は増える一方である。にもかかわらず、昔気質のつらい修行に耐え切れず辞めてしまう妓も多いため、花街ではいかに質の高い芸舞妓を保持するかが今後の問題といえそうだ。
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■「舞妓」さんたち、未成年で修行中だから、素養がたりないのか?■ボンボンである流行作家が教養たっぷりだから、そこのあささをみすかされたのか?
■いや、ちがうだろう。前回も紹介したとおり、安吾自身、日本的素養にうとい。欧米の文物にかぶれた存在だと卑下している。かれに、「特別の教養を仕込まれているのかと思っていたら、そんなものは微塵(みじん)もなく、踊りも中途半端だし、ターキーとオリエの話ぐらいしか知らないのだ。それなら、愛玩用の無邪気な色気があるのかというとコマッチャクレているばかりで、清潔な色気などは全くなかった」と、断定される京都の伝統とは、一体なのか?(笑)■安吾の女性差別はともかく、彼女たちをありがたがるオジサマがたの見識がフシアナであることは、否定しようがない。■ちなみに、前回ふれたとおり、これは1942年の文章であり、しかもこの京都滞在は「昭和十二年の初冬から翌年の初夏まで」とのべられているから、舞台は1937年くれごろだ。70年まえに、「伝統」のうすっぺらぶりを指摘されて、そのあと斯界は、大反省のうえ育成体制を抜本的にくみかえ、舞妓さんたち、別格の芸達者・素養のもちぬしに変貌したのであろうか?
■「昔気質のつらい修行に耐え切れず辞めてしまう妓も多いため、花街ではいかに質の高い芸舞妓を保持するかが今後の問題」だって? ご冗談を(笑)。70年まえにすでに存在していなかった「昔気質」なんですけど……。


【追記】『はてなダアイリー』の「坂口安吾とは」にブックマークされていることを発見。ありがたいはなしだが、なかなか、つかえるページであることも確認。■年譜以外には『青空文庫』へのリンク以外にみるものがない「Wikipedia 坂口安吾」よりずっと便利。