■『志村建世のブログ』の先日の記事から転載。

2006.11.16
日本語はどこへ行く
 文化審議会国語分科会というところで漢字政策の議論が進んでいると、一昨日の新聞に地味な記事が出ていました。パソコンやケータイの時代になり、漢字が手書きではなく「打ち言葉」として使われるようになったことも関連しています。私自身も、最近のブログ・サーフィンを通して、新しい問題が起きつつあることを痛感しました。一口にいうと非常に「乱れて」いて、いいかげんな漢字変換が横行しています。一つだけ具体例をあげると、「思ったよりも」を意味する「いがいに」が、「意外」の字ではなく、「以外とよかったりして……」などと「以外」で代用される場合が増えています。間もなく誤用として辞書に登録され、さらに常用にもなりそうな勢いです。
 日本語の最大の問題は、「漢字との不幸な出会い」から始まっています。中国から輸入した漢字は、日本語を書き表すには全く不都合な文字でした。日本語の表記は、ローマ字系の表音文字だったら50字もあれば充分だったのです。ところが「かな文字」を開発したほかに、漢字を、意味も音もそのままに借用して際限なく取り入れ、以後の日本語を構成しました。現在私たちは「品質を保証する」「損害を補償する」「安全を保障する」と3通りの「ほしょう」を使いわけていますが、意味の違う言葉が同じ発音になってしまうのは、本来は外国語の漢字を無理やり日本語にしてしまった報いで、コミュニケーションのツールとしては欠陥と言うほかはないのです。さらに漢字に訓読みを加えたことで、同じ字を、場面に応じて何通りにも読みわけることになりました。「下」を「げ・か・した・さがる・くだる」と読むなどです。本家の中国では今も1字1音が原則ですから、漢字ばかりが並んでも、日本語ほどの難しさはありません。
 かくして外国人から「悪魔の言葉」と嘆かれるような難しい言語が私たちのものになりました。戦後の当用漢字と音訓表の制定は、漢字の字数と読み方とを、ともかくも「有限の数」の中に収めようとする努力でした。それは教育民主化の一環でもあったのです。それなのにコンピューターの力で漢字変換を無限に拡大して行けば、際限のない迷宮に踏み込むことになります。それを日本語の奥深い魅力だから自由にするのが正しいとは、私は思いません。
 使いやすく美しい日本語はどうあるべきか。世界とのコミュニケーションが不可欠になる現代だからこそ、良識のある判断が必要です。そしてその先に、グローバル言語の必要性が浮かんできます。

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■基本的に異論はないし、ほかの言語現象についての見解についても、おおきな対立点はでないだろうとおもう。
■そのうえでなんだが、この志村さんの文章、漢字がずいぶんおおくないか?■こういった議論で説得したいのは、「漢字依存症」の層だから、かれらにあわせて漢字の使用率をあげているのかもしれないが、それよりは、漢字をつかう量をへらして、あかるい画面にするとか、ときどき ハラナがやるよーに、わかちがきしながら ぜんぶ ひらがな/カタカナがきだけで、かいてしまうとか してみたほーが、いーよーな きがするんだが(笑)。
■ちなみに、漢字をつかうときも、訓よみは基本的にさけているんで、かいてあるなかみが、かなりかたくても、画面はあかるいはず。