■沖縄県知事選について、ハラナとは少々ことなる判断だが、実に興味ぶかいものを発見。■つぎに本文と注記(コメントとトラックバック以外)を転載する。

2006-11-25
沖縄県知事選に寄せて

 先週日曜日に沖縄知事選で自民・公明推薦の仲井真氏が当選した。これを受けて何か書かなければな、と思いながら1週間が経とうとしている。もちろん、糸数候補の敗北は素朴に「残念」と思うし、この期に及んでこれかよ、という憤りもなくはなかった。しかし、その憤りをストレートに表現しよう、という気にもなれなかった。何か違う、という感じがしていたからだ。

 今朝の朝日新聞の朝刊に目取真俊が寄稿していると教えてもらい*1、慌てて買いに走る。「全国に47ある都道府県の知事選挙で、基地問題か経済問題かという二者択一の選択が強いられる選挙が、沖縄以外のどこにあるというのか」。目取真はそう、喝破する。その通りだ。では、経済と基地を取引にするという構図は、そもそも一体何を意味するのか。
 「基地か、経済か」という図式においては、「基地」と「経済」の軽重が問われるのであって、「基地」自体の妥当性が問われているわけではない。経済が取引材料とされている限り、「基地」というものが地域社会に対して、日本社会に対して、国際社会に対して、歴史に対して、そうしたあらゆる文脈に対して持っている意味が誠実に討論され、その中での誠実な答えが提示されるような選挙には、絶対にならない。むしろ、こうしたことを誠実に考えさせないようにするためにこそ、「経済」が持ち出される。だから、経済問題と基地問題を積極的にリンクさせるような輩は、たとえば、「基地と北部振興策は全くリンクしないという表現は当てはまらない」と発言した高市早苗のような輩は、基地容認という政策がこの世界に対して持っている含意を率直に肯定する言葉を欠いている上に、それを吐く意思もない。そこにあるのは、自らの政策を言葉で誠実に説明することができないという無能力さの自白か、選挙民は自らの言葉の意味を正当に評価することはできまいという愚民思想か、あるいはその両方である。反‐民主主義そのものといっていい。当然、こんな輩を重用している現政権も、それを支えている与党もである。彼らは、相手と誠実に話し合うことが大嫌いであるか、そうしたことが可能だと想像したことがない人間なのだ。*2秤の一方に「経済」を乗せた以上は、この選挙は「基地」そのものの当否を問うものには決してならない。その選挙結果からは、勝者が誇りうるいかなる含意を引き出すこともできない。そのことは明記しておく。

 このような状況の中で、沖縄の人々*3はよく耐えたと思う。糸数氏が善戦した、と言いたいのではない。そんなことではなく、沖縄の人々の良識は、仲井真氏の公約によく現れている。仲井真氏の選挙公約について、目取真氏は次のように述べている。

 仲井真氏にしても、V字形滑走路をもつ政府案を肯定しては当選できないのが自明だったから、「県内移設」容認をにおわせながら政府案には反対するという曖昧な立場を取らざるを得なかった。稲嶺知事がよく「マグマ」という言葉を使っていたように、基地問題への怒りや不満、苛立ちは沖縄の中に絶えず潜在している。これから政府との協議で自らの選挙公約をなし崩しに転換しようとするなら、仲井真氏もまたその「マグマ」に脅かされるだろう。

 我ながら今頃気づいたというのもマヌケな話であるが、政府・与党は、最初から勝利の目はなかった選挙だったのである。というのは、誰一人として、政府の提案に賛成する候補者はいなかったのであるから。

 そうした視点から、8年前、稲嶺県政の発足時を思い起こそう。あの時も、稲嶺は自民党の推薦を受けながら、「軍民共用空港」という政府案とは相容れない主張を掲げ、それでようやく当選している。そして、その後、政府案に擦り寄ろうものなら、怒れる県民から引きずり降ろされるのではないか、との不安から逃れられることはなかった。8年間、稲嶺は一歩たりとも政府に譲ることはできなかった。当然のことながら、これは稲嶺知事の才覚によるものではない。彼は、売る機会があれば、嬉々として沖縄の未来を売り渡す契約書にサインしたであろう。実際、何度もチャンスを伺っていたし、平和祈念資料館の展示改竄事件において、その歴史を売り渡そうとしたこともある*4。しかし、結局のところ、それを許さなかったのは「マグマ」である。そして今回の仲井真氏。彼もまた、稲嶺以上に踏み込んで政府案に擦り寄ることはできなかった
。できれば稲嶺ほど下品な人間でないことを祈るが、いずれにせよ、沖縄県民がこれまでどおりの意思を堅持し続けている限り、彼もまた、大したことはできない*5

 糸数氏が勝利していれば、この情勢下、教基法の強行採決もあったし、全国的にも勇気付けられるところであったろう。その意味でも、沖縄での糸数氏の勝利が欲しかった。それは今でも思う。しかし、どの面下げて、そんなことが言えるだろうか。仲井真候補の公約は切り崩されて、結果的には糸数氏と大して変わりないものとなった。その程度の成果さえ、私たちはあげられているのだろうか。とても心許ない。あちらはあちらの闘いをキチンとやっている。それに較べて私たちはなんだろう。むしろ私は、自分たちの挙げている成果の小ささを、恥ずかしく思う。

 まとめとして、二つの点を強調しておこう。一つ、「基地か経済か」という構図そのものが不正なのであり、そのような構図を作り出す政権にいかなる正当性も存在しない。これは選挙の結果と関わりない。二つ、沖縄知事選において、政府案に賛成していた候補は誰ひとりとしていない。いうなれば、与党は最初から負けている。これを小さく見積もることは、沖縄の人々を侮辱することである。以上二つの点からして、沖縄の勝利で与党が勢いづく、なんてのは勘違いでしかない。にもかかわらず、右派だけでなく、左派さえもが同じ勘違いを共有してしまっているのは悪い冗談だ。それは沖縄の良識ある人々に対する侮辱であり、踏みとどまっているはずの戦線を自ら放棄する愚行でもある。自分の目の節穴ぶりを深く反省したい。・・・その上で、私たちは私たちの闘いをキッチリやろう。
……
*1:x0000000000さん、ありがとう。

*2:もちろん、こういう連中を選んでおいて未だに恥じない連中も同列である。

*3:といっても、すべてではない。腐りきった保守主義者は、沖縄にだってもちろんいる。

*4:このときの経緯は『争点・沖縄戦の記憶』(ISBN:4784514201)に詳しい

*5:それもいつまでもつか、と心配にはなるが。

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稲嶺知事にせよ、島袋吉和 名護市長にしろ、米軍の永続化容認とうけとられかねない方針はとれずにきた(特に沖縄県知事は保革かかわらず)、という点はこれまでものべてきたので、その点での認識にミゾはない。■しかし、目取真 俊さんがいう「マグマ」の圧力によって「仲井真候補の公約は切り崩されて、結果的には糸数氏と大して変わりないものとなった。……あちらはあちらの闘いをキチンとやっている」と、モロてをあげて評価できるだろうか?■いや、ハラナは、野党共闘をはじめとして、現地で反基地でがんばっているひとびと(たとえば、ハラナが敬愛するmaxiさんとか)の営為を軽視するつもりなどは毛頭ない。■しかし、「仲井真候補の公約は切り崩されて、結果的には糸数氏と大して変わりないものとなった」というのは、ホントに「成果」といえるのだろうか?
先日のべたとおり、稲嶺知事は、やれっこない公約(新設の米軍基地の使用期限を15年とかぎること)をかかげなければ、大田前知事をやぶることができなかった。■しかし、それはホントに「成果」だったといえるのだろうか? ハラナには全然そうはおもえない。■「ある」のは、「返還」という空文だけひとりあるきして、普天間飛行場が以前米軍の安全基準さえも無視されたまま維持・機能されつづけているという現実であり、「移設」計画が中空にういたまま、なにもすすんでいないという事態、保守県政にむらがる土建金融資本主義勢力だけが利権をものにし、迷惑施設をおしつけられたまま受忍状態をしいられる住民という図式である。■そして「あった」のは、できもしない「から公約」によって詐欺的に勝利し、2期つとめあげて、めでたく後継者にバトンタッチをなしとげた稲嶺知事という人物の保守政治家としての「業績」である。■かれはいずれ叙勲など政府からのアメをさらにしゃぶらされ、かれの人脈もさまざまな利権・恩典に浴しつづけるだろう。
■事実として、われわれのめのまえにあるのは、?沖縄島・伊江島の基地周辺住民の安全性をそこね、アメリカの世界戦略をささえつづける安保体制と、?それにむらがることで、さまざまなアメをしゃぶりつづける一部の層がぬくぬくいきつづけるという構図だ。■ちょうど、アメリカにくいものにされる日本国民の大半と、その犠牲のうえにアグラをかく売国奴の連中が少数いつづけるのと、構造はそっくりだ。

■稲嶺氏は、基地問題について個人的にはいろいろおもうことがあるが、県政をになる責任者としては、くちにできない。はやく引退して評論家たち同様、おもったことをくちにしたい、などとかたっていると県紙などが以前つたえていた。■こういった文章を、かりにめにしたら、稲嶺氏および側近たちは、「なにも内情をしらない無責任なヤマトゥンチュのくせに、えらそうに」と反発することだろう。■しかし、かれが到底まもれっこない公約をうちだすことで革新県政をうちたおし、今回も保守県政をまもりきったという事実は、アメリカ+政府与党と安保体制の受益層が、また「うまくやった」という構図にほかならない。■かれらが、いくら「ウチナーンチュとして、くちにできないくやしさなら、いくらでもある」といいたてところで、「補助金とかはもういいから、安全をかえしてほしい」と痛切にねがう住民の意思をふみにじり、アメリカ+政府与党と安保体制の受益層=稲嶺氏がわに実利をもたらしたという事実はきえない。■かれら特権層が、かりにヤマトゥンチュと比較したときに、「安保体制の受苦層」と位置づけられるにしても、ほかの住民を犠牲にして、ちゃんと「迷惑料」でモトをとっているという構図には、かわりがないのだ。
■つまり、こういった沖縄現地にも少数ながら確実に再生産されている「安保体制の受益層」の存在という次元、それを最大限利用して政治経済的な実利をえている日米勢力という次元では、なにも変動がない。■これが「マグマ」による圧力、反基地闘争をになうひとびとの「勝利」といえるだろうか?■ハラナには、とてもそうはおもえない。■「基地の負担はつらいんです」とアリバイ的に「受益」層がかたりながら、現地の政治経済的支配を維持するかぎり、「与党は最初から負けている」といった反基地闘争の評価はくだしようがない。■かりに、「反政府勢力のがんばりで、この程度の受苦水準におさまってきた」と評価するにしても、それは、韓国やドイツなどにアメリカ軍が配慮してきた水準をはるかにしたまわる次元で、気をつかっているフリ、という卑劣なアリバイが機能してきただけだ。
■沖縄の保守政治家たちにとっては、「政府と住民のいたばさみでタイヘン」という主観的実感があるのだろう。■しかし、政治労働の大半は、そういった利害対立の調整作業であり、それが「一見困難」にみえる構図=状況こそ、「やりがいのある権力闘争ゲーム」にほかならない。■かれらはそういった「充実した日々」をおくり、政治経済的な実利をえて、しかも叙勲ほか各種栄典が「退場」後もころがりこむのだから、「ああ、わがよき人生かな」といったところだろう。

■以上、maxiさんたちの運動を「小さく見積もる」といった意図などない。maxiさんたちにとっては、まさに「釈迦に説法」そのものだろう。■しかし、沖縄現地では、よくたたかえている。だから「沖縄県民がこれまでどおりの意思を堅持し続けている限り、彼もまた、大したことはできない」といった「気休め」をいうべきでないとおもう。■「安保体制の受益層」にとっては、「大したこと」など、できなくて充分なのだ。かれらは、卑劣な体制矛盾から蜜をすいつづけること、要は「既得権」が大幅減にさえならなければ、それで満足なのである。
■もちろん、こういった「売国層」をのばなしにしている日本人が、倫理的にはずべき多数派であり、アメリカの被害者づらできるようなすじあいにないことは、確認しておかねばならない。■大田昌秀氏による「醜い日本人」というコピーは、依然「健在」である。



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