■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載【リンクは、ハラナによる追加】。■シリーズ第38回。■いつもどおり、ハラナがかってにリンクをおぎなっている。

【シリーズ記事】「転載:枯葉剤機密カルテル1」「」「」「」「」「」「」「」「」「10」「11」「12」「13」「14」「15」「16-7」「18」「19」「20」「21」「22」「23」「24」「25」「26」「27」「28」「29」「30」「31」「32」「33」「34」「35」「36」「37


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界の環境ホットニュース[GEN] 624号 05年12月3日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第38回)         
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
枯葉剤機密カルテル          原田 和明

第38回 法廷の枯葉剤

ベトナム戦争末期になると、およそ300万人と言われる 米国のベトナム帰還兵の間にも奇病が広がっていました。癌、皮膚炎、四肢の麻痺、神経症、性欲減退など症状は様々です。そして被害は彼らの子供たちにも及び、四肢の欠損、顔面の形成不全(トリチャーコリンズ症候群)などで誕生するケースが頻発しました。

癌におかされながら兵士たちの発病の原因は枯葉剤にあると訴え続けたベトナム帰還兵・ポール・リューターシャンの死をきっかけに、苦しむ帰還兵たちは集団であるいは個人で、米国政府や復員軍人局を相手取る訴訟を起こし始めました。全米各地の州地裁に持ち込まれた訴訟は1978年にニューヨーク州連邦地裁で一括審理される集団代表訴訟の形式をとることとなり、原告には被害を受けたオーストラリア兵も加わりました。そして、被告は米政府ではなく米軍に枯葉剤を供給した化学会社と定められました。米国では従軍兵士が戦場で受けた被害を理由に政府を訴えることは法律上できないことになっていたのです。そこで、「枯葉剤の毒性を知りつつそれを軍に売り続けた」ダウ・ケミカル社、モンサント社など在米枯葉剤メーカーである化学会社が被告とされたのです。帰還兵たちにとって苦肉の策でしたが意外な効果がありました。枯葉剤メーカーは裁判逃れのために、枯葉作戦当初から枯葉剤の有害性について米国政府、米軍は知っていたことを暴露し始めたのです。
それまで米政府も枯葉剤メーカーである化学会社も「人体への影響は報告されていない。」と口裏を合わせて、それ以上は沈黙を守っていました。そして、提訴されると化学会社側は「問題の責任は政府にある。軍需に応じたにすぎない企業が訴えられる筋合いはない。」と主張。しかし、81年春に帰還兵側の訴訟手続きに問題がないとの判決がでると、官民あげての知らん顔は続けられなくなりました。

83年春に、ダウ・ケミカル社は「枯葉剤の毒性を米政府は知っていた。」との証拠を突然 連邦地裁に提出したのです。

1963年にはジョンソン米大統領科学諮問委員会が枯葉剤の人体への長期的影響について明白な憂慮を表明。国立 癌研究所による実験 報告ではダイオキシンがネズミに出産異常や奇形を引き起こすことを明らかにしており、国防総省は、委託した枯葉剤研究の報告書から「作戦中の兵士やベトナムの農民に極めて有毒である」ことを67年に掴んでいました。そして、それらの報告を受けるとともに枯葉作戦は一気にエスカレートしていったのです。ダウ・ケミカル社の提出資料によって、米軍が奇形や癌を引き起こすことを知っていて、あるいは知っていたからこそ枯葉剤を使ったということが、初めて明らかになったのでした。(中村梧郎「母は枯葉剤を浴びた」新潮文庫1983)

ダウ・ケミカル社の証拠提出は「米政府が毒性を知っていて使ったのだから全責任は政府にある」との主張の裏づけとなるもので、政府の責任となれば裁判そのものが成立しないと主張するために出してきた事実です。

これに対し、ニューヨーク連邦地裁のブラット判事は「被告企業側も1960年代半ばには人体に有害との認識を持っていた」と認定し、これらの企業を被告とする訴訟の成立を認める決定を下しました。「兵士は国を訴えられない」米国では政府は被告の立場ではありませんが、国防総省が有毒と知りつつベトナムへの枯葉剤散布を続けたとの連邦地裁の認定はこれまでの「知らなかった。」という米政府の公式見解を覆すものとして注目されました。この決定は訴えを門前払いせず、裁判の成立を認めただけに過ぎませんでしたが、この日の決定で、枯葉剤供給メーカーのうち、ダウ・ケミカル、モンサント、ユニロイヤル、トンプソン・ヘイワード、ダイヤモンド・シャーロックの5社が被告としての立場に立たされることが決定したのです。(1983.5.13 朝日新聞夕刊)

その背景には、1976年夏にイタリアで起きたセベソ事件(除草剤245Tの原料245TCP工場での爆発事故。ダイオキシンが飛散した)をきっかけにダイオキシンへの関心が世界的に高まったことがあげられます。そこに、米国各地で枯葉剤及びその関連物質の杜撰な埋設処理による環境汚染の発覚がありました。
ラブカナル事件(原因企業:フッカー社、1978年)、サゲノー川のダイオキシン汚染事件(ダウ・ケミカル社、1978年)、海軍基地での貯蔵枯葉剤漏洩事件(ミシシッピー州 ガルフポート、1980年)、タイムズ ビーチ事件(モンサント社、1982年)と続く大規模環境汚染事件に対する 米国民の怒りがありました。その世論がニューヨーク連邦地裁の認定を引き出したものと思われます。

審理が始まれば誰が何を隠蔽し、犯罪的結果を引き起こした責任はどこにあるのかなど、すべての問題が 明るみに出るはずでした。ところが1984年5月、大法廷での審理が始まる直前に、それまで責任は一切ないと主張し続けていた被告化学会社側が突然調停を申し出てきました。徹夜の話し合いの末、帰還兵側弁護団は勝訴の確信が持てないとの理由で、開廷当日の夜明けに和解を受け入れたのです。
結局誰一人法廷で証言することはありませんでした。後になってレーガン政権が枯葉剤と病気の因果関係を認めてはならない、との方針を出していたことが明らかになっています。(中村梧郎「グラフィックレポート・戦場の枯葉剤」岩波書店1995)

枯葉剤メーカー側は和解金として1億8千万ドルを支払い、弁護団は今後出てくるかもしれない疾病も含めての手打ちとして1300万ドル余りの手数料を手に入れました。妥結した和解金額は化学会社側が支払うつもりでいた金額を大きく下回るものでした。そのため、帰還兵には死んでも3200ドルほどが支給されるだけだったのです。(中村梧郎「グラフィックレポート・戦場の枯葉剤」岩波書店1995)

---------------------------------------------
■つみのなすりつけあいは実にみぐるしい。■こういったかたちでしか、事実があきらかにならないことは、実になさけない。
■そして、「和解」というかたちで、事実の核心部分は当事者にかたられないまま、ヤミにほうむられたのだろう。■おそらく、おなじ政官財の体質がいまもくりかえさているはず。日米両国の本質がそんなに短期間でかわるとはとてもおもえない。