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ジャック白井
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジャック白井(ジャックしらい、1900年?-1937年7月11日)は、スペイン内戦において人民戦線・共和国側の国際旅団に志願入隊して参戦、戦死した日本人義勇兵。北海道函館市出身。生まれてすぐに両親に捨てられ、孤児院で育ったということだが、その前半生は謎に包まれている。

彼は15歳の時に孤児院を飛び出し、年齢を偽ってカムチャツカ 航路の貨物船に雇って貰い船員となったが、1929年にアメリカに密入国し、ニューヨークでパン職人や料理人として働いた。そして日本人労働者団体に属し、労働運動に身を投じた。
 1936年7月、スペイン内戦が始まると、彼はアメリカ共産党の義勇兵募集に志願し、12月26日、95人のアメリカ人と共にスペインへ旅立った。そして第15国際旅団第17大隊、通称エイブラハム・リンカーン大隊に配属され、マドリード防衛戦、ハラマ河の戦いなどの激戦を経験した。しかしジャック白井は職業経験を買われて炊事兵とされた。本人はそれが不満で、いつも前線に出たいと不平を漏らしていた。その後希望が容れられ、普段は炊事兵として、戦闘時は銃を取って前線に出「戦うコック」と呼ばれて活躍するようになった。

 1937年7月11日、ブルネジの戦いでジャック白井は戦死する。弾雨の中立ち往生していた炊事車を動かすために陣地を飛び出したが、直後に銃弾に頭を撃ち抜かれ即死したという。墓碑には、「ジャック白井。反ファシストの日本人。彼の勇気を称えて。1937年7月11日」とあった。アメリカでの白井は、無口であまり喋らない男だったが、スペインでは、「いつも笑顔をふりまく、陽気な男」「子どもをかわいがる気の優しい男」だったと戦友は証言している。


参考文献
スペインで戦った日本人』 朝日文庫 石垣綾子著 ISBN 4022605383
スペイン戦争―ジャック白井と国際旅団』 朝日選書 川成洋著 ISBN 4022594713

外部リンク
ジャック白井について
写真つきコラム

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■波乱万丈の一生だね。
■以下、「Wikipedia スペイン内戦」から、一部抜粋。

内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して、激しい弾圧を加えた。特に自治権を求めて人民戦線側についたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがナチスドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者がメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きかったと言われる。人民戦線政府も亡命政府としてメキシコに1976年まで存続した。〔Wikipedia スペイン内戦 戦後
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カタルーニャ語の社会言語学的な地位については、「ことば/権力/差別(新刊)」の第10章「言語政策から言語権政策へ―カタルーニャの言語政策を事例として」(塚原信行)が便利か。
■たとえば光州事件から四半世紀しかへていない隣国 韓国が、そのカゲをひきずっているのは当然として、スペインはフランコが死去する1975年まで30年間の独裁がつづいたがゆえに、キズあとがいえきっていないらしいというのは、すさまじい。■ま、旧社会主義国家を前身とする地域や中国・台湾などは、それ以上だろうけど。


【スペイン内戦70年関連情報】

●「スペイン万歳!」「カナリア諸島にて」「自由の女神 in スペイン」「サグントの労働者のために」〔『郵便学者・内藤陽介のブログ』〕
●「京都でロルカのイベントに参加」〔『神戸まろうど通信』〕

ホセ・ルイス・グティエーレス・モリーナ『忘れさせられたアンダルシア――あるアナキストの生と死』〔皓星社〕