■先日かいた「「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調(朝日)」のつづき。■ずっとまえにかいた「受験業界関係者おごるなかれ」、ちょっとまえにかいた「文化資本・地域格差・受験文化」の補足でもある。

■以下、「「塾は禁止」 教育再生会議で野依座長が強調(朝日)」でリンクしておいた 「ノーベル賞受賞者なんてこんなもの」の大半を引用。


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「昔できたことがなぜ今できないのか。我々は塾に行かずにやってきた。塾の商業政策に乗っているのではないか」と訴えた。

 昔できたことがなぜ今できないのか? それを考えるのも仕事ではないかと思われますが、思考放棄して安易に犯人捜しに走る人もいるようです。いつもならここで日教組を犯人に指名していたところですが、今日は珍しく塾を犯人に仕立て上げようとした模様、新パターンですね。少しは進歩もあるのかな? しかし、本当に「昔はできていた」のかどうかにそもそもの疑問を感じるのですが。


 個人的な体験からいえば、小中学校まで勉強は塾でやるもの、学校は邪魔者でしかありませんでした。学校がなければもっと勉強できていたと思います。ああ、塾じゃなくて学校を禁止にしてしまえば日本の学力は上がるんじゃないでしょうか?
 小中学校では暴行、傷害、恐喝、窃盗、器物破損などの犯罪が後を絶たず、私が親であればそんな危険な場所に子供を近づけたくないような有様でした。形式上、授業は行われてしましたが制度上の履修時間を満たしていたので形式的には未履修ではないのですが、教科を最後まで適正に教えられていたとは言い難く、内容の面では実質的に未履修状態でした(これが高校になると内容的には履修済み、しかし授業時間からすると未履修のパターンが増えました)。校内の治安維持、教員の授業能力ともに全くの欠陥校だったわけです(ついでに言えばこれが昨今になって始まったものであるとは思えないのですが)。そして無責任な人はそれを日教組のせいであると、犯人を決めて終わりにしてしまい、問題の本質に向き合おうとしません

 学校も色々あるわけですし、塾もピンキリです。まともなところもあればろくでもないところもあるわけで、私の体験から断定するのは無理があります。しかし、おおむね塾は学校と違って安全で、ちゃんと勉強を教えてもらえるところでした。この違いは何だったのでしょうか?

 塾とは、勉強をする場所です。だから、学校と比べると余計なものが少ないわけです。朝礼なし、HRなし、給食なし、体育なし、学校行事なし、掃除なし、クラブ活動なし、ただ勉強をするだけです。だから教員側も授業に専念し、授業の質で勝負しようとします。一方で学校では朝礼、HR、給食、体育、学校行事、清掃云々と勉強とは関係のないことが山積み、学校の先生方は授業よりも子供の面倒を見ることで手一杯なのかもしれません

 私のいた小学校では運動会が盛んで、運動会の3ヶ月前からマスゲームと整列練習に明け暮れ、授業の半分は潰されていました。美しい国が重んじる規律を養うにはよいのかもしれませんが、これでは学力低下も当たり前でした。たぶん、教育再生会議の連中も私の出会った学校の先生方も根本は同じ、規範意識だの品格だの人間力だの、とにかく学力以外の面に干渉したがる、それが高じて肝心の勉強がおろそかになっているような気がします。

 文部省の定めたカリキュラムに乗っ取り検定済みの教科書で授業をしなくてはならない学校、自主的なカリキュラムと独自の教材で授業をしてきた塾、これで後者の方がより効率的な学力向上効果が得られたからこそ、子供が塾に行くわけです。教育現場への干渉を強める教育再生会議の方針ではこの傾向をなおさら強めるような気もします。いくら上から指図したところで児童預かり所を兼ね人格形成に力を注ぐ学校では、勉強の専門家である塾に勝てるわけがありません。野依氏は教育再生会議の教育方針が塾に負ける=自ら誤りを突きつけられるのを恐れて、事前に塾に潰しをかけたいのかもしれませんね。

 とりあえず「公教育が再生されれば、自然と塾は競争力を失っていく。結果的になくなる」そう言うのであれば、その「再生」とやらが完了して塾が自然に競争力を失ってから禁止を検討して下さいね。そんな日は永遠にこないでしょうけれど。

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■事実認識として、相当ただしいとおもう。■ただし、誤解をあたえる過度の一般化がまぎれこんでいる。それと、「日本の学力」とか「学校がなければもっと勉強できていた」といった、おどろくべき、ソボクかつ俗流の学力観で公教育をなでぎりにしてしまっている。■その意味では、「学校も色々あるわけですし、塾もピンキリです。まともなところもあればろくでもないところもあるわけで、私の体験から断定するのは無理があります」とか、「学校では朝礼、HR、給食、体育、学校行事、清掃云々と勉強とは関係のないことが山積み、学校の先生方は授業よりも子供の面倒を見ることで手一杯」といった、公教育現場への配慮は、批判をかわすためのアリバイ工作にさえみえる。イジワルなみかたかもしれないが。■以下、なるべく誤解を生じないように、補足する。

■?「暴行、傷害、恐喝、窃盗、器物破損などの犯罪が後を絶たず、私が親であればそんな危険な場所に子供を近づけたくないような有様」とか「運動会が盛んで、運動会の3ヶ月前からマスゲームと整列練習に明け暮れ、授業の半分は潰され」るといった小中学校が大半のはずがない。■こういった、地域環境や校風は、実に特殊な体験であって、これらを根拠にした立論をたてれば、おのずと過度の一般化=極論にいたるほかない。、「学校も色々あるわけで……まともなところもあればろくでもないところもあるわけで、私の体験から断定するのは無理があります」といった、いいわけは通用しない。
■ちなみに、前者については、「効果のある学校」といった議論が必要な空間であり、当然、地域差別・階級差別をはらんで、微妙な問題になることをさけられない。■筆者は、どのくらい自覚があって、体験談をだしているのか?

■?筆者の学力観は、受験対策塾であつかう、いわゆる入試科目、小学校なら算数/国語/理科/社会、英語/数学/国語/理科/社会などだけの教科、しかも入試にあつかわれそうな内容だけが「学力」であり、そのためのクイズ処理能力をたかめる訓練だけが「勉強」らしい。■それが証拠に「文部省の定めたカリキュラムに乗っ取り検定済みの教科書で授業をしなくてはならない学校、自主的なカリキュラムと独自の教材で授業をしてきた塾、これで後者の方がより効率的な学力向上効果が得られたからこそ、子供が塾に行く」と断言しているからだ。■そうであるなら、「学校と比べると余計なものが少ないわけで……朝礼なし、HRなし、給食なし、体育なし、学校行事なし、掃除なし、クラブ活動なし、ただ勉強をするだけ」といった、学校がかかえこんでいる「不純物」など列挙する意味がない。単なるイヤミである。■だったら、公教育からのがれ、塾がよいだけして(あるいは、面従腹背し)、大学検定試験でもうけて大学に進学するのが「効率的」だろう。いや、それにちかいかたちで、学校を忌避/面従腹背して「お受験」にはげむ層は、大都市部にすくなくない。■そういった、公教育を心底侮蔑し、邪魔者あつかいしている層にとっては、「塾じゃなくて学校を禁止にしてしまえば日本の学力は上がる」という夢想は、現実そのもののはずだ。
■こういったたちばにたつなら、「児童預かり所を兼ね人格形成に力を注ぐ学校」というのは、最大の侮辱表現なのだろう。

■?ハラナ自身、マスゲームやら校則やらで、教師が妄想する秩序・規範意識をおしつけようとする学校文化にはヘドがでそうだし、教育再生会議の面々と、左派リベラルと自認する教員層の無自覚な偽善性とが、意識されない共通点だろうことは、否定しない。
■しかし、筆者がもちだすような方向性で塾を肯定するなら、大都市部の中産階級以上だけが「勝ち組」を確保するような、エゲつない格差社会の合理化としかおもえない。■「暴行、傷害、恐喝、窃盗、器物破損などの犯罪が後を絶たず、私が親であればそんな危険な場所に子供を近づけたくないような有様」の校区をなかば意識的に放置することで、「ネズミ」の自然増殖をひそかによろこぶような、実に下品な政治経済学的な立脚点であり、いわば新自由主義からの保守主義批判としか、理解できないのである。■この次元で、政府周辺の新保守主義の教育論を批判するなら、共闘などできない、有害な論理としかおもえない。「ネズミからイヌへの昇格は、とうまでもなく正当だ」という、社会ダーウィニズムの一種として。

■?ついでいうなら、「自主的なカリキュラムと独自の教材で授業をしてきた塾……の方がより効率的な学力向上効果が得られた」と本気で信じているなら、その「学力」観は、あまりに まずしく、さして上品でもない新興ブルジョア層からさえ、軽侮される宿命をまぬがれないだろう。■「受験業界関係者おごるなかれ」の論点をごく一部だけくりかえすなら、受験対策塾とやらがつちかう「学力」は、所詮は上級学校の選抜装置としてのクイズ解答能力でしかすぎない。■大学や学界に真の知が充満しているとはいわないが、高校以下の入試問題に、科学的発想法とか芸術的創造力なんてものが、もりこめるはずがない。大学院の博士課程編入試験とか芸術系大学の実技試験なんかは、微妙だけどね。
■と同時に、高校入試などでとわれる「学力」が、市民的素養でなどないことは、いうまでもない。あれは、塾関係者のように、生業としてクイズ対策をくりかえすトレーニング実行者とか、むかし「お受験」突破組で、自分のコドモの入試対策につきあうことで、過去の栄光と自尊心をかきたてられた層にのみ特有な「芸事」にすぎない。■あんなクイズ集。オトナを無作為抽出して、全教科8わりクリアといった層が何%でるかね? 30代以上にかぎれば、ほぼ壊滅状態におわるんじゃないか?(笑)■ウソだとおもうなら、東大教授を100人ぐらいクジでえらびだし、東京都の公立高校の入試5科目をとかせてみればよい(開成とか筑波大附属駒場とかでなく〔笑〕)。満点がどのくらいでるか?(笑) いや、大学入試センター試験でもいいよ。これだと、シャレにならんか?(笑) 「えっ。東大の先生たち、そんなにできないの?」って、受験生たちが騒然となるだろうこと、うけあいだ。

■?もちろん、「文化資本・地域格差・受験文化」「文化資本・地域格差・受験文化2」でものべたとおり、ガツガツ受験勉強した層の一部(「うわずみ」)が、そこそこの能力に達することは否定しない。■しかし、それはあくまで、受験勉強の副産物でしかなくて、品性はもちろんだが、知性がつちかわれる保証などない(品性も知性もかいた、某軍事同盟国首脳などは論外だが)。
■たとえば、リンク集の定番カマヤンは塾講師であり、まぎれもない知性の典型だということは、その受験国語指導論にもあらわれる(http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060708#1152297583http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20060924#1159035885http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061011#1160521802http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20061018#1161119160)。■しかし、「カマヤン」レベルの覚醒した塾講師が、100人にひとりいるか? そして、「カマヤン」レベルの知的刺激=入試体験を かてに、知的成長・成熟をとげる受験生が10人にひとりいるか?■カマヤン氏には失礼だが、はっきりいって、その熟達した受験指導がもたらす階級的再生産≒固定化の害悪と、例外的に誕生する「知性の交流・覚醒」の生産性とのバランスシートが、「正」である可能性は0にちかいとおもう。■カマヤン氏の受験業界人という生業は、あくまで、カマヤン氏という知性を餓死させず、ウェブログや掲示板で思想運動を展開できる経済的・時間的資源の確保という次元でのみ、正当化されるとおもう。