■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載。■シリーズ第43回【リンクは割愛】。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 629号 05年12月30日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
           枯葉剤機密カルテル(第43回)         
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 枯葉剤機密カルテル          原田 和明

第43回 大牟田爆発赤痢事件

 ところで、なぜ三井東圧化学(現・三井化学)大牟田工業所で化学兵器・枯葉剤が製造されることになったのでしょうか?

 1971年5月20日の衆院内閣委員会において、楢崎 弥之助(社会党)が同僚議員に代わって急遽登壇、日華事変 勃発から 2ヶ月後の1937(昭和12)年9月に福岡県大牟田市で起きた事件をとりあげ、戦前からの三井東圧化学大牟田工業所の「製品」について質しています。その事件の概要を西日本新聞社論説委員長・大山巌の著書「昭和史を歩く」(文献出版1987年)から編集して紹介します。

 昭和12年9月25日、夕方から夜にかけて突然、福岡県大牟田市内で 多数の幼児が高熱、嘔吐、けいれんを起こして次々に倒れるという事件が発生。市内の医師たちは徹夜で駆け回りましたが明け方には死者が出始めています。26日の大牟田市は修羅場でした。どの病院、医院にも患者が殺到、医院に入りきれない親子が路上に溢れ、何人もの幼児が診察を待つ間にけいれんを起こして次々と亡くなっていきました。母親たちは半狂乱になって医師を訪ね歩きました。当時の大牟田市の人口11万人に対し、10月までの患者数12332人、死者は712人。全市の1割以上の人が罹患したという大惨事となりました。28日には多すぎる死者に火葬場が過熱、全焼。それ以後火葬場の広場にマキを積んでダビに付したのでした。
 27日には、陸軍省医務局、久留米、熊本両師団の軍医、さらに九州大学、長崎大学、熊本医大などが調査のため大牟田入りしていますが、九州日報によると、すでにこの日「原因は上水道」との見方が報じられています。それは原因を飲食物と想定し、これだけ大量の患者が共通して飲食したものとしては水道以外にないとの憶測に基づくものですが、28日には内務省も既に「上水道に依る疫痢の爆発
的発生」と想定していました。

 28日以降になると、大人の患者が増えてきました。福岡日日新聞によればこの日、九州大学 医学部は患者3人から赤痢菌を検出。そして調査に加わった京大、長崎大、熊本医大でもそれぞれの患者から赤痢菌を検出しています。内務省は 10月5日に「今回の大牟田市の爆発的 赤痢の発生原因は水道という考え方であり・・」との声明を出し、「奇病」は「上水道による赤痢」との見方が定まったのです。

 水道原因説が固まると、汚染源を特定する調査が始まりました。当時大牟田市の水道は隣接する熊本県 清里村(現・荒尾市)の6つの井戸(源井)から取水していたのですが、そのうち第三源井の番人方の一歳半になる息子が事件数日前に腹痛で医者にかかっていた ことが判明。10月になって 一家5人を検便したところ赤痢菌を検出、10月13日には県衛生課員が第三源井の貯水井戸壁に一部破損箇所を発見して、19日付大阪朝日新聞は「大牟田赤痢禍の原因分る」として、第三源井の番人が井戸端で保菌者(幼児)のおむつを洗濯した汚水が破損箇所から貯水井戸に流入したとの見方を伝えています。

 この事件はのちに「大牟田爆発赤痢事件」と呼ばれ、厚生省水道課は1962(昭和37)年に編纂した水道汚染による伝染病集団発生事例のトップにこの事件をとりあげ、世界史上に例のない集団赤痢として紹介しています。(1971.5.20 衆院内閣委員会)

 ところが事件当初は赤痢または小児赤痢である疫痢とはされていなかったのです。27日付九州日報は「大牟田に奇病発生」と報じ、その症状は「疫痢に似ているが疫痢とは思われず、医師も原因不明で弱っている。」と書いています。さらに28日には「問題の上水道については市水道課で水質調査、細菌培養試験を行った結果、何の異常を認めざるを発見」と報じています。

 とりわけ、大牟田市水道課長・塚本久光は「水道原因説」に強く反発しました。なぜなら、この年の春、第三源井は改修され、貯水井戸を経由しない取水路に変更されていたからであり、何より第三源井を常用している水道課員とその家族、さらには周辺住民数百人から一人の患者もでていないという事実があったからです。現地調査に立ち会った塚本は「赤痢菌が水道に入るはずがない」と、内務省防疫官の制止を振り切って、水道の水をガブガブ飲んでみせました。水道課長としての最大限の抗議でしたが、内務省の断定の前には無意味な抵抗でした。12月4日、塚本久光は39歳の若さで市長、助役とともに引責辞任させられました。

 戦後、塚本は2度、大牟田 市議選に立候補しています。「爆発赤痢」は水道が原因ではないことを明らかにすることが目的でしたが、当選は果たせず、「まだ真相を明らかに できる時代ではなかった」と言い残して、2度目の 落選の 翌年、1952(昭和27)年にまだ53歳の若さで病没しています。ところが彼の死から10年後、大牟田市水道局の金庫から彼の極秘メモが発見されたのです。そこには水道原水が爆発赤痢の原因とは考えられない18の理由が挙げられていました。

(1)水道から赤痢菌は検出されていない、
(2)水道汚染説の決め手となったのは水源井戸の番人の幼児(当時1歳)のおむつの洗濯だったが、当の幼児は赤痢ではなく、消化不良だった。そのことは担当医の診断書、カルテに記載されている、
(3)9月21?25日の間に三池港に寄港し 給水を受けた9隻の船に塚本が電報を打ち、乗組員の状況を確認したところ、全部の船から「異常なし」との返事が届いた、
(4)水道水を飲用した全家庭から患者が発生したわけではなく、三井三池 染料工業所(枯葉剤245Tを製造していた三井東圧化学大牟田工業所の前身)の周辺の住宅街に患者が集中している、

など水源汚染説では説明がつかない点を指摘しています。

 第三源井の番人も後に「一万人以上も発病させるほどの赤痢菌を体内に持っていたなら子供自身がとうに死んでいたじゃろう。」「警察が『罪にならんから』と無理に調書をとりハンコをつかせた」と証言しています。

 塚本メモには添付資料があり、三井三池染料工業所N工場で 昭和12年9月25日午後6時と26日午前零時20分の2度に亘り爆発事故があったこと、二度目の爆発では市消防組が消火にかけつけたが会社は消防組の入所を拒否したことが記されています。塚本メモには、大牟田市内の幼児が次々と倒れた時間帯と工場で爆発事故があった時刻が符合することから、三井三池染料工業所内で赤痢爆弾が爆発したのではないかと推定していました。

 塚本久光の長男・唯義は「水道が原因ではない」と叫び続けて死んだ父の意思を受け継ぎ、父が果たせなかった「爆発赤痢事件の原因究明」をたった一人で始めています。そして1969(昭和44)年に塚本メモ以外で、三井の染料工場で爆発事故があったことを伝える資料を見つけたのです。昭和12年11月15日の大衆新聞に、爆発赤痢事件当日、三井の染料工場で爆発事故があったこと、患者はまず咽喉を侵されたことが記されていました。赤痢ならば咽喉がやられるはずがありません。しかし、複数の大学で患者の便から赤痢菌が検出されています。一体何があったのでしょうか?

 楢崎は塚本父子の集めた資料を基に政府を追及しました。(1971.5.20 衆院内閣委員会)「三井三池染料工業所N工場で一体何の爆発があったのか。N工場は一体何をつくっていたのか。」

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■異様な社会問題の背後には、特異な歴史的背景ありか?
■ミステリーめいた歴史的経緯の実相はどこに?


■なお、「西日本新聞社論説委員長・大山巌の著書「昭和史を歩く」(文献出版1987年)」とあるが、薩摩藩士→陸軍大臣の大山巌〔1842-1916〕のはずがないが、おそらく山本巌『昭和史を歩く 福岡県を舞台に』(文献出版1987年)の誤記であろう。

山本巌(やまもと・いわお)さん
1941年、福岡県生まれ。西日本新聞監査役。
西日本新聞の北京特派員、文化部長、論説委員長などを歴任。94年に、市民から実行委員を公募して福岡市で「夢野久作展」を開催。イベントのプロたちは「絶対赤字」と予想したが、予想を超える入場者数で黒字となった。著書に『夢野久作の場所』『昭和史を歩く』『三国志の旅』(共著)など。(2001年11月号『夢の久作』)