前回および、前々回の続編。

■政治家の公約や商品のうりこみ(そこには、風俗街・量販店はもちろん、就職戦線などもはいるが)などでの、「いいことしかいわない」という、「宣伝」の詐欺性と対極にみえる、「謙遜」という、つつましさの演出が、実に偽善的な戦略・戦術だとのべた。■「めだたない」「ですぎない」という、「自衛」策であると同時に、自覚の有無に無関係なイヤミにあたると。
■再確認するなら、「みのるほど、こうべをたれる いなほかな(実るほど、頭を垂れる稲穂かな)」といった、世間・世界のひろさ、自分の限界を自覚した「ひかえめ」な姿勢・意識は、「能あるタカはツメをかくす」式に、通常は評価されるし、「ツメをかくすタカ」「こうべをたれる いなほ」に攻撃をくわえるのは、野蛮なイジメであると、周囲の攻撃性がおさえこまれる構図が、ここにはある。■それは事実上、差別的に高度の基準(一般人をおきざりにした)をもちだすことで、「みずからは、図にのっていない」と、さきまわりする戦術なのだ。
■しかし、一般人をおきざりにした水準にみずからをあてがって「謙遜」するという行為は、かなり「ねぶかい」次元で差別的である。
■前回、富者が「謙遜」すると、一般人が「貧乏」あつかいをされしまうと、のべたが、その延長線上には、「貧者」が一層「論外」な存在としておとしめられるという論理がかくされているのだ。■この、比較的優位にあるものの「謙遜」という姿勢のもつ問題性は、もちろん、経済的貧富や芸事・学識ほか、ほとんどあらゆる優劣関係にあてはまってしまう。■人間国宝が「まだまだです」とのべれば、無自覚な一般人は ただ感動するだけだろうが、「非熟練工」として「つかいすて」にされている労働者の「技能」は、「技能」にあたいしないといわれているも同然だ。■博識な研究者が謙遜すれば、学校にまともにかよえ(かよわ)なかった層は、侮辱されているも同然だろう。■パラリンピックの勇者が、健丈者の一流選手をイメージして謙遜すれば、運動不足の大衆は、無能・無策な層であることを意味するし、重度の身体障碍者は、マイナスの存在とされかねない。
■いいかえれば、自己の限界・「減点」箇所を丹念にあげる人物は、そういった水準に到底到達しえない層を、間接的に侮辱する存在となってしまう。■本人に悪意があろうと、なかろうと。

■ひとは、なにを「ほこり」にし、アピールするかで、その品性をあらわにしてしまう。だから、「うり」を演出する、「限界」にふれない行為は、基本的にみぐるしいふるまいとなる。■実はフラフラで、すでに戦闘能力をうしなっているにもかかわらず、試合続行可能であるかのようにふるまうボクサーのように。■幼児をはげます周囲のオトナじゃあるまいし、自己防衛的に無能さをかくし、長所だけを前面にだすのは、あまりにはずかしい。

■その一方で、ひとは、なにを「はじ」とし、なにを「いたらない」とアピールするかで、その差別意識をあらわにしてしまう。■本人に「わるぎ」などなかろうと、「一般大衆」「さまざまな障碍をかかえる層」がめざすことを断念するほかない、「差別的に高度な基準」をマゾヒスティックに自己に課すこと。■それは、かれらよりも、そのモノサシでは、ずっとずっといたらないだろう、「一般大衆」「さまざまな障碍をかかえる層」をサディスティックにさいなむ言動を意味してしまう。

■自己愛的・自己満足的に優位をかたりたがる、あるいは、「うりこみ」をはかる層の、問題性はわかりやすい。■しかし、「うり」を封印した禁欲的な層の、逆説的な「くせもの」ぶり=偽善性にも警戒をわすれないようにしたい。■かれらのマゾヒズム(おのれへのサディズム)は、うらがえしのかたちで、周囲へのサディスティックな圧迫感となる。無自覚だからといって無実なわけでないことはあきらかだし、自覚があるなら、実にサディスティックといえるだろう。ホンネをひたすらかくし「求道
〔グドー〕」の姿勢に邁進するかぎり、攻撃を回避し、周囲の権威主義的な賞賛・美化という副産物をもかちえるのだから。
■いや、自覚がある「悪意の求道者」の方がマシか? 「無自覚な求道者」は、おそらく究極の自己欺瞞であり、かつ周囲との格差を直視しない、無自覚な差別者なのだから。■「どんなみちをえらんだか?」は、単に「自分にもっともふさわしかったから」と正当化できるはずもなく、おおくのばあいは、社会的に有用・有意義であると、プラス評価をうけることを前提に選択されたばあいがほとんどのはずだから。