■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載。■シリーズ第46回【リンクはハラナ】。

権力犯罪の歴史的経緯が、またあきらかに

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世界の環境ホットニュース[GEN] 632号 07年01月24日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第46回)         
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枯葉剤機密カルテル          原田 和明

第46回 軍需工場としての設立

三井三池染料工業所のN工場について三井東圧化学社史に記載があります。社史によると、

三井鉱山は 合成染料を中核事業に育てるために 三池焦媒工場を三井三池染料工業所として大正7(1918)年に独立させ、インジゴや硫化ブラックの研究を始めた。しかし、工業化に立ち遅れたため、工場は米国デュポン社から装置を購入して建設。このとき建設されたのが鉄筋4階建のN工場で、わが国で初めて採用された立体構造の合成染料工場である。以後他の染料工場で、この方式が採用された。

製造上のトラブルや製品の品質問題に苦しみ、2年の試運転期間を経てようやく販売を開始。その後 硫化ブラック原料として ピクリン酸ジニトロクロロベンゼンから製造する研究を進め、昭和2年に生産開始、のちの軍需への道を開くことになる。
ピクリン酸は日本海軍の主力火薬で、下瀬火薬の主成分でもあります。N工場が軍需工場であったことは社史も認めています。染料の原料はそのまま爆薬原料でもあり、染料工場はたちまち軍需工場に衣替えできたのです。その工場で塩素化が行なわれ、日華事変(1937年)の頃すでに くしゃみ性毒ガスを 生産していたことになります。このN工場の構造が他の染料工場(軍需工場)のモデルとなったとのことですが、ベトナム戦争があった1960年代に三井化学の有機塩素系農薬を製剤化し、枯葉剤製品化にも関与していたと見られる三光化学(後に三西化学)も同じく化学工場としては珍しい鉄筋4階建(GEN599号)だったのは単なる偶然だったのでしょうか。

日本の毒ガス製造は 最初から秘密にされていたわけでは ありません。新聞にもたびたび登場しています。なかでも1935年3月21日付 報知新聞には、染料工場で爆薬、毒ガスが作られていることが掲載されています。(以下引用)

更に国防上からの重要なる地位を染料工業が占めていることはあまりにも明かである、染料の製造には火薬、爆薬、毒ガス製造に不可欠の硝酸、硫酸、塩酸等を多量に使用して居り、(中略)猛烈な くしゃみを発せしめるジフェニル塩化砒素、アダムサイトの如きガスには各々アニリン、苛性曹達、塩酸、キシロール、ジフェニールアミン等の染料原料、中間物及び助剤をその製造に不可欠としている。(中略)前述の如く染料は染色用としてのみならず軍事上及び化学工業一般の見地からすこぶる重要性を持っているので、染料工業に対する政策あるいはその企業形態は可なり特色あるものとなっている、(中略)現在我国に染料製造工場は五十あるが、その中高級染料は大体日本染料(大阪)、三池(福岡県大牟田市)、保土ヶ谷曹達(横浜)の三会社で生産している、(中略)我国でも染料工業は独占企業の方向に進むものであろう。(引用終わり)

この記事のごとく、染料工業は 1943(昭和18)年1月の「染料及びタール系中間物工業整備要綱」に基づき企業の統廃合が強行されました。既存企業のうち、製品の特殊性など存続が必要なものは大企業に統合または譲渡され、残りは廃業させられました。その結果、三井化学、帝国染料製造(現・日本化薬)、日本染料製造(現・住友化学)、日本化成(現・三菱化学)、保土谷化学(1939年に保土谷曹達から改称)、由良精工(現・本州化学)の6社に集約されました。(三井東圧化学社史)大企業は戦時下という特殊事情を利用して労せずして特殊技術を入手することができたのです。

このうち、三井化学と保土谷化学がベトナム戦争で枯葉剤が散布されていた時期に日本国内で枯葉剤 245Tや24Dの原体を生産、日産化学と石原産業がその原体からオレンジ剤と同じ成分である24D・245T混合剤を1800トンあまり国内向けに製造、販売しています。(1970.10.9 参院決算委員会)

日米開戦の危機が高まると、三井財閥は 化学事業の結集と総合化を目的として、三井化学を設立しました。三井鉱山から化学部門の資産、職員、従業員を引き継ぎ、総数12000人を上回る一大化学会社が昭和16年4月に誕生しました。三井鉱山は化学部門を分離するに当たって「化学事業の性質上秘密を要するものをもって新会社の主体とす」(三井東圧化学社史)としているように、もともと秘密化学工場として設立されたのです。太平洋戦争が始まった1941年下期、三井化学の総売上高3500万円のうち、統制品59%、軍直納品38%で、民需製品はわずか3%と、初めから軍需工場の名にふさわしい商品構成でした。

さらに太平洋戦争を機に軍需品生産工場の建設のほか、軍需物資関連工場の生産力維持のための改修、増強なども 活発に行なわれたため 設備投資が急増、1942(昭和17)年には軍需品の比率は45%に上がり、以降 終戦までその比率は高まる一方でした。(三井東圧化学社史)このように、当初から 事業拡大のために軍需工場として分離・独立させた三井三池染料工業所と三井化学は満州事変、日華事変、太平洋戦争を ビジネスチャンスとして 急速に巨大企業に成長していったのです。

三井三池 染料工業所で製造されたジフェニル塩化砒素(赤剤)は、大牟田 爆発赤痢事件の直後、同じ福岡県内の曽根村(現・北九州市小倉南区)に正式発足した東京第二陸軍造兵廠曽根製造所で砲弾に充填されていたと思われます。毒ガス島で有名な広島県大久野島では毒ガスの製造から充填まで行なわれていましたが、マスタードガス(びらん性毒ガス。旧日本軍での呼称は黄剤)が生産能力で6割強あり、くしゃみ性 毒ガスである赤剤は 全体の5%にすぎません。(原田正純「水俣が映す世界」日本評論社1989)しかし、毒ガス充填専門の曽根製造所では出荷の8割以上が くしゃみ性毒ガスを 充填した赤弾でした(尾崎祈美子「悪夢の遺産」学陽書房1997)ので、大久野島が黄弾(マスタードガスの製造と充填)、曽根が赤弾(どこかで製造された くしゃみ性毒ガスを受入れて充填)という分業だったと考えられます。三井三池染料工業所と曽根製造所の関係は枯葉剤国産化において三井東圧化学で原体製造、三光化学(のちに三西化学)で製剤化という関係と似ています。

日本の毒ガス研究の最盛期は1935年でした。その後は次第に減少し、1941年までには事実上停止しています。研究の停止は大量の化学兵器を保有する米国との戦争になったことから、米国からの報復を恐れての方針でもありましたが、資材不足という台所事情もありました。砲弾用の鉄も不足していましたが、毒ガス製造に不可欠な塩素の原料である食塩が食用にすら不足していたのです。(宮田親平「毒ガスと科学者」光人社1991)

敗勢が明らかになってきた1944年2月には本土決戦を想定した新毒ガス開発のために「戦時 研究制度」を創設、帝大の当代一流の科学者が「東部班」「西部班」にそれぞれ十数人づつ集まられましたが、「決戦兵器」は開発されることなく敗戦を迎えました。

戦後行なわれた米国の調査によると、「日本は20年もかけて世界に知れ渡った毒ガス以外は何も開発しておらず、ドイツからの技術的な援助もなく、行き当たりばったりの研究を続けていた。」(R.ハリス「化学兵器」近代文芸社 1996)というような状況でした。

福岡県大牟田市も1944(昭和19)年11月25日以来5度にわたる空襲で壊滅的被害を受け、広島に原爆が投下された翌日 1945年 8月7日の工業地帯への空襲により三井三池染料工業所の生産は完全に停止しました。(三井東圧化学社史)

福岡県北九州市の日本製鉄(現・新日本製鉄八幡)への空襲はその翌日8月8日ですから、米国は日本の制空権を握ってからも、いたずらに住宅地域への空襲ばかりを繰り返し、戦争遂行能力のポイントである軍需工場がある工業地帯へはそのままとは言わないまでも、何とか操業ができる程度には手加減しておいたということになります。まるで日本が降伏しないように仕向けていたかのようです。原爆投下後はその目的を達したかのようにそれまで残していた工業地帯への空襲を敢行したのです。

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■なだたる、化学メイカーのおおくが、その前身を国策にそった軍需工業としての歴史をもつこと、敗戦後は準属国として米軍のベトナム戦争の「後方」だったことを確認しておこう。■現在の主力商品がかりにほとんど民生品であったにせよ、その前史たる「死の商人」という本質はけせない。


■「戦争遂行能力のポイントである軍需工場がある工業地帯へは…、何とか操業ができる程度には手加減しておいた…。まるで日本が降伏しないように仕向けていたかのよう」という記述は、意味不明。■かくなら、兵器生産拠点をあえて たたかなかったようにみえる、米軍の戦略構想ないし情勢判断を仮説的にしろ、かきこまないと。■「戦略爆撃」には、軍首脳部の意思決定がかならずあるのだから。


●「吉田健正『戦争はペテンだ』