■とうとう3年めに突入した。なので、一応2年間の後半(2006/02/15?2007/02/14)をふりかえっておこう。■といっても、ちょうど1年まえの「この日記の1年をふりかえる」みたいな、きあいのはいったことは、到底できる状況にない。

■なので、微視的に詳細に分類作業をしたりすることは あきらめて
〔不完全ながら、検索機能もあるし〕、巨視的に概観をとらえることにしよう。

■まず、この1年の劇的な展開は、2年めにはいる直前から、1日に2本以上の記事をかくことが、常態化したことだ。■「月別アーカイブ」をみれば ひとめでわかることだが、2006年1月まで、この日記は基本的にというか、ほぼ完全に「1日1本」のペースをかたくなにまもっていた。かこうとおもえば かけたはずだが、ムリしたツケで あとあと かけない日がでそうな不安もあって、実に自重したかたちで、淡々と「1日1本」ペースでかきつらねていた。■しかし、1年目最終盤から、「1日複数本」が基本になった。昨年くれのように、1日2本ペースをわりこむ月が例外的にでたが、基本はそれ以上で、月間100本前後のつきもザラになった。■要は、量的ペースが変質したということだ。
■量的な「解禁」は 当然質的な変動というかたちで あらわれる。■?まず おおきな変動は、ウェブ上に公開された新聞記事を借用・転載するかたちででの記事が かなりの比重をしめるようになった点だろう。■ま、最初から 「時評」をうたっているので、それまでの「独断」「独善」の文章からして、「名実」が一致したという ケガの功名は 否定できない。■2005年も、フェロシルトJR福知山線脱線事故など、シリーズ化したものがないではなかったが、「時評」をうたいながら、それらしくない「書評」「論評」コーナーがすくなくなかった当初の色彩がおおきく修正されたということだ。
■?また、以前は「書評」とか「紹介」といった分類で、本の紹介がかなりあったが、それは なくなり(「紹介」という分類自体はのこっているが)、個別の記事中に、ちょっとだけふれるだけにおわるケースが激増した。
笹原宏之『日本の漢字』シリーズも16(2006/04/30)をもって長期休業状態だし(笑)、『「ニート」って言うな!』のコメンタールも、12でとまったまま(2006/05/02)というのに象徴されている。■ま、これは かなり粘着性のあるシリーズだったんで、自分でもこの水準を維持する気迫がうせたってこともあるが、この前後をさかいに、単発で書評を中心とした詳細記事をかくのがとだえたとおもう。■記憶ちがいでなければ、本務のいそがしさのせいだ。■ときどきせよ、1冊の本を、かなりの気あいをこめて 論評する文章を用意するために、数時間?数日間さくという物理的時間がなくなったのに、一日あたりの記事量がふえるという、皮肉な動向がもたらした。■以前ご愛顧いただいたギャラリー層にはもうしわけないが、長期休暇がたまたまえられたにしても、以前のようなスタイルは復活しないとおもう。■ただ、ほうってあるシリーズの続編は、おりをみてかくつもり。

■シリーズものとしては、いろいろある(あった)。■パロマ/リンナイ騒動でも、半分シリーズっぽく記事がかなりかかれたが、「枯葉剤機密カルテル」シリーズ(=転載・補足系)は先月末で46回も記事化した。■「差別論ノート」(35回)や「『読売新聞(沖縄版)』特集「沖縄から」(20回)、「スポーツからみた日本社会」(19回)なども、かなり「長寿」。

■ほかにめだつものとしては、回数がバラけるが、 

●「「ムダ」とは なにか?」(14回)
●「理念型としての「プロ」」(10回)
●「祝日の意味再考」(9回)
●「安倍晋三コネクション・ リンク集」(9回)
●「転載:原田和明「水俣秘密工場」」(9回)
●「大相撲と八百長」(7回)
●「沖縄の化学兵器」(6回)
●「日本語をかく」(6回)
●「「ロダンのココロ」解析ノート」(6回)
●「日米密約は「歴史」なのか?」(5回)
●「自転車の「とおりみち」」(5回)
●「Wikipedia型教科書の構想」(5回)
●「あやしいコンビニ」(5回)
●「編集作業としての低次元化」(4回)
●「坂口安吾ノート」(4回)
●「日本語特殊論の特殊性」(3回)
●「童話とイデオロギー注入」(3回)

■準シリーズものとしては、「愛知万博」(30件弱)や、「六ヶ所再処理工場」(約20件)、「偽装請負」(10件前後)、「原発震災」(10件前後)あたりが めだつが、「公費を私物化する知事と、それをえらぶフシギな都民」「都民の税金を石原慎太郎家臣団が食い漁る(AERA)」「東京マラソンで都心「大封鎖」 2月18日、銀座6時間(朝日)」「石原都知事 税金飲食1615万円(しんぶん赤旗)」「私物化都知事のもとで、おきていること」といった石原ネタ(笑)など、ほかにもありそうだ。■もちろん、単発のテーマがつまらないとか、そういったもんじゃないけど。
■70件ぐらい「かきかけ」と「おくらいり」でとどまっていて、最新記事が1430台なので、1350件はかいたことになっていて、うち1年以上まえにかいたのが、約370件。ということは、この1年で1000ちかくかいたことになる。■つまり、シリーズっぽい一群は、むしろ少数派に属していて、全然全体を代表していないことになる。■まあ、安倍っちとか、無数にかいたしね…(笑)。


■あとは、カテゴリー(分類わく)のかずをふやしたので、2005年当時とくらべれば、かなり特定されたかたちで記事がかかれるようになったとおもう。■たとえば、以前ならフェロシルトは「リスク」に分類されていただろうが、「廃棄物」におさまることになった。■もちろん、核廃棄物などもありえるんで、ナショナリズム現象と教育現象/国語現象の境界線の恣意性同様、そこでの線びきは実際むずかしい。しかし、核廃棄物など急性症状をおこしそうなモノは「リスク」に、フェロシルトなど慢性疾患として中長期的な健康被害が心配されるものは、「廃棄物」あたりにおさめることになった。■まあ、三重県のフェロシルト問題への対応で、特定の政治家とか官僚が実名で登場するようなばあい、責任問題が「政治家・公務員の潔癖さ」に分類されるのかどうか、といった問題は当然のこる。■実際、パロマの死亡事故問題などのばあいは、同族支配の構造的欠陥を問題視した。しかし、一応、中毒死リスクがからんでいるんで、責任問題でも「リスク」論にふくめてある。