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■「ことば/権力/差別(新刊)」で、「具体的な論評は、hituzi、こと あべ・やすし氏がおこなうはず。」とかいて、紹介だけにとどめておいたが、論評がないので(笑)、自分でやる。

■まずは、先日紹介した「「例えば視覚障害者の言語権保障の観点から全ての日本語使用者に対して漢字の使用を制限すべきだというような主張は、あまりにも実現性が乏しい。漢字を用いてしか実現出来ない素晴らしい言語表現の世界は確かにある。それを一部のマイノリティの為に捨てろというのは必要以上の反発を買うだけであろう…」といった論評」=っていうか、誤読の典型的被害(カスタマーレビュー)をうけた、あべ論文から。

第6章 漢字という障害  131
  ――――あべ・やすし

1. はじめに  131
2. 盲人に対する障害物としての漢字  132
3. さまざまな文字弱者をうみだす漢字  144
4. 漢字弱者の解放にむけて  153
5. 終わりに―漢字という不安  159
■まず、レビュアーが精読しないで無責任にかいただろう「例えば視覚障害者の言語権保障の観点から全ての日本語使用者に対して漢字の使用を制限すべきだというような主張」を、あべ氏は していない。■それは、本論文の最終箇所を引用すれば、イチモク・リョーゼンだ〔漢字不可欠論者のみなさん、「リョーゼン」を、不安なくてがきできますか?(笑)〕

……文字のよみかきを学習するなかで、漢字にとくに愛着を感じなかったひとであれば、だれしも漢字という困難を経験してきたはずである。そして、なんらかの漢字がよめないこと、かけないことについて、はずかしい気もちにさせられたことなど、それぞれのひとに「漢字という障害」の記憶があるのではないか。漢字という障害がなければ、だれも漢字力の有無や大小におどらされ、不安をもつことはない。漢字という障害、漢字という不安をなくすために必要なのは、さらなる漢字教育なのだろうか。日本語には、2000字もの漢字がつかわれており、その漢字には訓よみと音よみがあり、画数もおおく複雑な字づらのものが大量にある。このような日本語表記は、だれでも自由につかいこなせる文字体系ではない。漢字という不安は個々人の常識不足がもたらすのではなく、社会がつくりあげているのである。だから、その社会こそを改善しなければならない。漢字弱者の解放は、漢字という不安を感じてきたすべてのひとにとっての解放でもあるのだ。
〔p.159〕

■「一部のマイノリティの為に捨てろというのは必要以上の反発を買うだけであろう」といった論評が実に無責任な放言であり、自分自身の漢字弱者への差別意識や文化資本への偏愛を一所懸命擁護しようとする防衛機制であることは、あきらかだろう。■いってはわるいが、この水準のよみで、★を4つもつけている了見をうたがうよ。これだけ誤読というか、論文を通読さえしないままでレビューできてしまう神経。おそらく、★4つというのは、レビュアーが 不愉快にならずに「理解できた」と誤解できた 比率をしめしているんだろう。■それこそ、まともな執筆陣だった、この★のかずが 全然意味をなさず、「そうか。この程度の読者しか いないのかもしれない」と、がっかりすることだろう。

■あべ氏は、こういった結論をみちびくために、周到で多彩な論点を用意して議論をすすめているのだが、言語現象を話者の社会的属性に即して特異性を記述するとか、パターンをみつけだせば、それで社会言語学的研究になりえていると、タカをくくっている先生方とちがって、高踏的でない、意識的に ひくめな視座が感じとれるよね。■とりわけ、「ことばのユニバーサルデザイン」をめざして具体的提言がなされている点がすばらしい。■これは、社会言語学の思想性の良質な部分を継承しているだけでなくて、障害学とのであいが、かかせない契機なんだろう。
■情報弱者の読書権をはじめとした 言語権の諸問題にふれるうえで、必読文献なんじゃないだろうか?


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