■「伊吹文科相発言、官邸は擁護=安倍首相、「問題とは思わぬ」(時事)」の補足。■前回は、文部科学大臣の「大和民族が統治した同質的な国」発言にしぼってツッコミをいれ、いわゆる「人権メタボ」論については、ふれないですました。
■なんでかといえば、直感的にアホ発言
〔たとえの不適切さ、センスのわるさ……〕がわかったものの、実はわきあがってくる違和感が整理できていなかったからだ。■そしたら、ナイスな整理がトラックバックでおくられてきたので、腑におちた。アタマのいいひとは、実に便利だ。「たりない資源は かりればいい」という障害学的な発想からいっても、ウェブログというのは、実に有効なことがわかる。

人権はバター」〔『津久井進の弁護士ノート』〕

 伊吹文部科学相が改正教育基本法の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについて,
  「日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため」
と説明した上で,
  人権をバターに例えて
  「栄養がある大切な食べ物だが、食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』になる」
と言ったなどというニュースがありました。
 私は,伊吹大臣によい印象を持っていないこともありますが,それにしても,いくつかひっかかったというか,とても強い違和感を感じました。
 論理的ではなく“感覚的”な違和感ですが,自分なりに整理すると次のような感じです。

1 「日本がこれまで個人の立場を重視しすぎた」
 →これは,従来の政策や,政府の教育方針と違うので,ウソでしょう。
  日本では「大きな声を出す個人」に,事なかれ主義的に配慮をしたことはあっても,「声なき小さな人々」の立場を重視してきたということはないはずです。

2 「人権はバター」
 →ここには,「人権は西洋的な考え方」というニュアンスが込められています。
 純日本人なら,パンとバターではなく,味噌汁とご飯だろう!みたいな雰囲気が伝わってきて,国民気質に合わないみたいに聞こえます。
 人権は,空気や水みたいに当たり前に存在するものと(自由権),人間の尊厳を守るために支援していく補充・調整する役目のとしての社会権(あえて例えるとビタミンやミネラルみたいなものかな。)があるわけですが,
とにかく,
   無くてはならないもの
というところがポイントだと思います。
   失ったときにその大切さがわかるかけがえのないもの
と言っても良いかも知れません。
 バターみたいに、あってもなくてもどちらでもよい、お好み次第ですよ、というものに例えるのは、誤解を招くのでよくないです。
 
3 食べ過ぎれば日本社会は『人権メタボリック症候群』に
 →確かに,何事についても過ぎたるは及ばざるがごとし,というのはそのとおりですが,かつて日本社会が正しい意味で人権意識にあふれていたことがあったでしょうか。
 私は,この国では,「人権」という食べ物に飢え,貧窮しているように感じます。
 人権と規制のバランス(たとえていえば,栄養のバランス)が各所で崩れているという現状認識をしています。

 “人権の栄養失調”とみるか,“人権メタボリック症候群”とみるか,は,「人権」という概念のとらえ方と,現状認識の違いによるものと思います。

きっと異論もあるでしょうが,私の率直な感想です。
私は,少なくとも教育を語る文部科学大臣の発言としては、ふさわしくないと感じています。

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■違和感の所在が氷解した。
かれらムラ社会の「幹事役」連中にとって、「同質的」な空間は自明の前提だ。そのうえで、欧米から「輸入」した「人権」概念ってのは、国際社会の文明国としてあつかわれる。つまり欧米社会=ヨーロッパ系キリスト教徒に不当に蔑視されないための要件として、ムリして「滋養強壮の妙薬」をのみこんできたにすぎない のだろう。■ムラ社会で、周囲に対して「おぬしら、開化がたりんのう」などと「差」をつけて、優越感にひたるだけでなく、そのマゾヒスティックな努力でもって身体化することで、実際にムラ的ピラミッドでの番付上位を安定させるための不可欠の「アイテム」だったのだ。
■そうしてみると、ほかの さまざまな 奇怪で醜悪な現象も、たちどころに カラクリがすけてみえてくる。■なぜ 連中が「人権」概念をことあるごとに軽視し、形式的にまもっているフリだけする、アリバイ野郎たちだったことも。■連中の「人権」概念ってのは、「お上」から「下々」へと、ありがたいものとして あてがわれるもの なのだ。■だから、裁判所の少々まもとな判断や、人権保障のための立法などがなされるごとに、「こんなに 臣民の連中に譲歩してやった」といった、おためごかしな「蓄財」意識だけが累積していく わけだ。

■してみると、「改正教育基本法の前文に「公共の精神を尊び」という文言が加わったことについて,「日本がこれまで個人の立場を重視しすぎたため」 と説明した」の真意もはっきりする。■連中のいう「公共の精神」ってのは、公務員や政治家が国民・在日外国人のための公僕として滅私奉公することなんかではなく、「お上にしつこく権利要求をしないよう、下々をおさえこむ」ためのお題目なわけだ。■「士農工商」ならぬ「士商工農」ピラミッドは、連中のなかで幕藩体制期以来不変であり、みずからを「士」と信じてうたがわない連中にとっては、そういった徳目としての「公共の精神」は、「下々のものども」に、ホネの髄までわからせないと、こまる必須アイテムということになる。■なるほど。「権利のはきちがえ」とか「自由のいきすぎ」とか、自分たち自身が「権利」「自由」概念を悪用しているくせに その自覚がなく、国民・在日外国人にのみ 「権利・自由の限界」をこうるさくくりかえしてきた動機がよくわかった。
■しかし、東京都財政・組織の私物化でご多忙らしい石原都知事の例をみても、生化学的にメタボリックな日々をおすごしなのは、政治家・高級官僚のみなさんだろう。■われわれ 「下々」のものたちの 精神状態など心配ご無用。■われわれ 「下々」のものたちにとっては、アンタがたの精神・思想に欠落している、「人権意識」「遵法精神」「公僕意識」といった アブラを、ちゃんとオツムにさしてもらわないと、毎日が不安でしかたがない(笑)。


■ついでいえば、つぎのような地方議会でのアホ発言の構図も通底しているんだろう。

高知市議「不適切だった」さびた機械発言
2007年02月26日 17:30 【共同通信】
 社民党の福島瑞穂党首らを「機械のさびた連中」とした発言について、高知市の島崎利幸市議(72)=自民=は26日、共同通信の取材に「石原裕次郎の『錆びたナイフ』という曲が好きで、つい出てしまった。不適切な言葉だった」と述べ、発言撤回の意向を示した。

 社民党高知県連は同日、抗議文を送っており、島崎市議は近く文書で正式に謝罪する。

 島崎市議は22日、柳沢伯夫厚生労働相の「産む機械」発言をめぐり国会審議を拒否した野党について「福島さんはじめ、機械のさびた、おばさん連中が『大臣辞めろ』と騒いでいる」と批判した。


■マックス・ヴェーバー御大のとく近代官僚制の理念にならうなら、行政・立法の府は、当然、私心をすてて、淡々と人権擁護にはげまねばならない。■かりに、官僚・政治家のオジサマがたが、内心アンチ・フェミニストであろうと、そういった内面の自由とは無関係にね。■その意味では、この私議こそ、「セクハラをふくめたセクシズムをしでかさないよう」アブラの注入が必要だろう。■一度議席を返上して、それこそ「みそぎ」の選挙で再選されるようにね。


●「トラックバック・ピープル 安倍晋三