■ダラダラつづく シリーズ5弾。■前回のつづきではなく、第3回まで紹介した、坂口安吾「日本文化私観」(初出:「現代文学 第五巻第三号」1942年2月28日)から、また一部を引用。

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 そういう僕に隠岐がいささか手を焼いて、ひとつ、おどかしてやろうという気持になったらしい。無理に僕をひっぱりだして(その日も雪が降っていた)汽車に乗り、保津川をさかのぼり、丹波の亀岡という所へ行った。昔の亀山のことで、明智光秀の居城のあった所である。その城跡に、大本教(おおもときょう)の豪壮な本部があったのだ。不敬罪に問われ、ダイナマイトで爆破された直後であった。僕達は、それを見物にでかけたのである。
 城跡は丘に壕(ほり)をめぐらし、上から下まで、空壕の中も、一面に、爆破した瓦が累々と崩れ重っている。茫々たる廃墟で一木一草をとどめず、さまよう犬の影すらもない。四周に板囲いをして、おまけに鉄条網のようなものを張りめぐらし、離れた所に見張所もあったが、唯このために丹波路遥々(はるばる)(でもないが)汽車に揺られて来たのだから、豈(あに)目的を達せずんばあるべからずと、鉄条網を乗り越えて、王仁三郎の夢の跡へ踏みこんだ。頂上に立つと、亀岡の町と、丹波の山々にかこまれた小さな平野が一望に見える。雪が激しくなり、廃墟の瓦につもりはじめていた。目星(めぼ)しいものは爆破の前に没収されて影をとどめず、ただ、頂上の瓦には成程金線の模様のはいった瓦があったり、酒樽ぐらいの石像の首が石段の上にころがっていたり、王仁三郎に奉仕した三十何人かの妾達がいたと思われる中腹の夥(おびただ)しい小部屋のあたりに、中庭の若干の風景が残り、そこにも、いくつかの石像が潰れていた。とにかく、こくめいの上にもこくめいに叩き潰されている。
 再び鉄条網を乗り越えて、壕に沿うて街道を歩き、街のとば口の茶屋へ這入(はい)って、保津川という清流の名にふさわしからぬ地酒をのんだが、そこへ一人の馬方が現れ、馬をつないで、これも亦(また)保津川をのみはじめた。馬方は仕事帰りに諸方で紙屑を買って帰る途中で、紙屑の儲けなど酒一本にも当らんわい、やくたいもないこっちゃ、などとボヤきながら、何本となく平げている、何か僕達に話しかけたいという風でいて、それが甚だ怖しくもあるという様子である。そのうちに酩酊に及んで、話しかけてきたのであったが、旦那方は東京から御出張どすか、と言う。いかにも、そうだ、と答えると、感に堪えて、五六ぺんぐらい御辞儀をしながら唸(うな)っている。話すうちに分ったのだが、僕達を特に密令を帯びて出張した刑事だと思ったのである。隠岐は筒袖の外套(がいとう)に鳥打帽子、商家の放蕩(ほうとう)若旦那といういでたちであるし、僕はドテラの着流しにステッキをふりまわし、雪が降るのに外套も着ていない。異様な二人づれが禁制の地域から鉄条網を乗り越えて悠々現れるのを見たものだから、怖い物見たさで、跡をつけて来たのであった。こう言われてみると、成程、見張の人まで、僕達に遠慮していた。僕達は一時間ぐらい廃墟をうろついていたが、見張の人は番所の前を掃(は)いたりしながら、僕達がそっちを向くと、慌てて振向いて、見ないふりをしていたのである。僕達は刑事になりすまして、大本教の潜伏信者の様子などを訊ねてみたが、馬方は泥酔しながらも俄(にわか)に顔色蒼然となり、忽ち言葉も吃(ども)りはじめて、多少は知らないこともないけれども悪事を働いた覚えのない自分だから、それを訊くのだけは何分にも勘弁していただきたい、と、取調室にいるように三拝九拝していた。
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■ひとは、12年まえのオウム真理教の総本部(山梨県上九一色村の教団施設)が強制捜査をうけるまえの一連の事態(地下鉄サリン事件や、実行犯が特定されていない警察庁長官狙撃事件など)をおもいだすだろう。■しかし、こと国家権力への打撃の可能性をかんがえるなら、大本教による築城・武装の本格的な状況の方がずっと深刻だったとおもわれる。たとえば、およそ70年まえの2月26日におきた「二・二六事件」(1936/02/26-9)では、警察官僚もつぎのとおり、全面的な対応ができずにいた。■オウム真理教の危険性(国家体制への)が過大評価されるのは、マスメディアによる過熱報道の産物であり、大本教弾圧は報道が国家統制されていたから、さほど重大事にうけとめられなかっただけだろう。■ちなみに高橋和巳が『邪宗門』のしたじきにしたことは有名。

警視庁
当時、不穏な世情に対応するため警視庁は特別警備隊(現在の機動隊に相当する)や対テロ特殊部隊である警官突撃隊(現在の特殊急襲部隊に相当する)を編成しており、反乱部隊にとって脅威であった。

そのため、野中四郎大尉指揮の襲撃部隊(約500名)が警視庁を襲撃する。襲撃部隊はその圧倒的な兵力及び重火器によって、抵抗させる間もなく警視庁全体を制圧、「警察権の発動の停止」を宣言した。

警察は、事件が陸軍将校個人による犯行ではなく、陸軍将校が軍隊を率いて重臣・警察を襲撃したことから、当初より警察による鎮圧を断念し、陸軍、憲兵隊自身による鎮圧を求め、警察は専ら後方の治安維持を担当することとし、警視庁は「非常警備総司令部」を神田錦町警察署に設けた。

警察、特別高等警察を管掌する内務省警保局の幹部は第二次大本教弾圧のために京都にいたため対応が遅れたが、在京の事務官の生悦住求馬は九段の軍人会館の司令部に乗り込んで情報統制(検閲)の一切を行った。


■皇道派の影響をうけた一部の青年将校らが、まさか大本教弾圧のために内務省の反応がおそくなるなどと計算してやったとはおもえないが、ヒロヒト(昭和天皇)がまともでなかったら、ファシズム体制が一層、狂気のみちを爆走したかもしれない。■そうでなくても、集団ヒステリー状態で、現在の某国のような孤立ぶりだったのだから、二・二六事件は、時代のあきらかな転換点だったといえるだろう。クーデタは失敗におわったが、右翼のテロにおびえる政党・国民は、戦時体制にこしがひけていた層をも強引に動員していく。それこそ、コミュニスト灯台社信者のような ごく特殊な層をのぞいては、抵抗不能になった。■翌年1937年の7月7日に勃発した盧溝橋事件にはじまる日中戦争への「地ならし」が完成したといえるだろう。

■それにしても、
1932年 - 日中問題の調査の為、国際連盟リットン調査団が来日
1936年 - 二・二六事件の反乱部隊に原隊復帰勧告(「兵に告ぐ」)が出され、5時間で帰順。
1936年 - 岡田啓介内閣が総辞職。
1940年 - 大本教教主・出口王仁三郎不敬罪治安維持法違反で無期懲役の判決

という一連のできごとが、4年に1度の閏年にしかあらわれない2月29日だというのは、あまりに因縁めいていないだろうか?■「2004年(閏年)2月29日に出生した者の年齢は、平年には誕生日前の最後に始まる月である2月に誕生日である2月29日が存在しないから、その月の末日である2月28日が終了する瞬間、すなわち3月1日午前0時00分の直前に、閏年には誕生日の前日である2月28日が終了する瞬間、すなわち2月29日午前0時00分の直前に、それぞれ1歳を加える」という「年齢計算ニ関スル法律」にならうのがナンセンスである以上、これらはみな3月1日をもって、ことして75年、71年、66年と、かぞえるわけだが。