■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載。■シリーズ第47回【リンクはハラナ】。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 633号 07年03月04日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第47回)         
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枯葉剤機密カルテル 原田 和明

第47回 枯葉剤国産化の始まり

楢崎弥之助が追及した「国産枯葉剤」はベトナム戦争で大量に使われた245Tでした。もうひとつの枯葉剤24Dも国産化されており、その始まりは朝鮮戦争の開戦時にまで遡るのではないかと考えられます。

1930年代に 植物成長ホルモンの研究が 始まり、24Dは成長ホルモンの生産を抑制する物質であること、高濃度で 使用すると 植物を枯らしたり変形させたりすることが発見されました。第二次大戦に入ってから、交戦国の穀物生産を壊滅する目的に24Dを使うことが検討され、日本の穀物を壊滅する作戦が計画されました。しかし 原子爆弾投下が優先されたため 実行には移されませんでした。
宮田親平「毒ガスと科学者」光人社1991)24Dはベトナム枯葉作戦で245Tと混合して オレンジ剤の名称で 大量に散布されましたが、その24Dも1950(昭和25)年から三井化学が生産していたのです。
日本を占領した直後の 米国の対日政策は、その基本を 日本の軍事力を徹底的に破壊することにおき、軍事力の根源となる一切の軍需工業はすべて賠償用に撤去されるものと規定していました。(鎌田慧「日本の兵器工場」潮出版社1979)

日本有数の軍需工場だった三井化学や三井三池染料工業所も1946(昭和21)年夏に苛性ソーダ、ピクリン酸、硫酸、フェノール、無煙火薬安定剤などの軍需関連工場が賠償指定を受け、自由に工場を稼動させることができなくなっていました。
終戦直後には三井化学社長自ら、軍需産業からの転換を宣言しています。(三井東圧化学社史から引用)

昭和16年の新発足以来、三井化学は国策に順応して事業を拡大してきたが、ついに軍需会社としての使命を終わることになった。1945(昭和20)年12月26日に開催された三井化学の株主総会で、荘原和作社長は次のように報告している。
8月15日、畏くも終戦の大詔を拝し当社の軍需会社としての使命はここに終わりを告げ、当社としましては一大転換の時期に立ち至りました。(中略)今後は多年育成してまいりました当社の経験と技術を極力活用し、新生日本の平和産業再建に邁進いたす覚悟でございます。」(引用終わり)

ところが 49年9月に ソ連原爆実験に成功したことで、絶対的な 破壊力をもつ核兵器の独占状態が崩れました。それに加え、10月に中華人民共和国が成立し、米国と同盟関係にある蒋介石政権が「台湾落ち」したことは、米国にとって大きな痛手でした。これによって米国は軍事戦略と兵器体系の 再編を迫られました。(太田昌克「731免責の系譜」日本評論社 1999)そこで、米国の対日政策は「戦争遂行能力の除去」から「軍需工場を復活させて米国が利用」へと変化し、三井化学の賠償指定工場もほとんど指定を解除され、撤去を免れたのです。

そして朝鮮戦争が始まると、戦時中、民間で生産する海軍用爆薬の 70%(約600トン)を生産していた三井化学は再び軍需工場の顔を取り戻し、通産省の指導で早鐘工場を再稼動させ、TNT火薬 月産200トンの生産に着手する一方、米軍太平洋戦争で西日本一帯に散布する予定だった枯葉剤24Dの生産を開始しています。(三井東圧化学社史)(以下引用)

24Dは 昭和25年7月20日付 農薬登録888号“三井化学24D”として本格生産を開始したが、26年5月ICI(英国 帝国化学工業)およびACP(アメリカン・ケミカル・ペイント)両社の特許問題から一時中止のやむなきに至った。その後24Dの需要は水田除草剤として急増してきたため、主原料のフェノール、モノクロロ酢酸、塩素などを自給できる三井化学は、再度本格企業化の準備を開始し、28年12月、ICIと特許実施権契約を締結して、29年1月 技術導入の認可を申請した。」(引用終わり)【A】

これだけでは、「三井化学24D」が化学兵器・枯葉剤だったとはいえません。三井東圧化学社史の同じ項目の中に次のような奇妙な一文があります。(以下引用)

PCPは 昭和25年から BHCの副産物であるトリクロロベンゼンを原料に生産を開始したが、27年にはフェノールを原料とする自社技術を開発、月産10トン設備を建設して生産を開始し、30年には20トンに増強した。これはPCPの需要が木材防腐剤向けに加えて除草剤用として増加してきたことに対処するためであった。」(引用終わり)【B】

奇妙な点とは、「除草剤用に」PCPを増産したという昭和30年にはまだPCPの除草効果が確認されていなかったという点です。PCPに除草効果があることが発見されたのは1956(昭和31)年に宇都宮大学で行なわれた「思いつき実験」のときであり、その後1959(昭和34)年の農林省(現・農水省)全国試験を経て実用化されたのですから(GEN596号・第12回)、昭和30年に 除草剤用の需要が増加するはずがないのです。また、PCPの農薬登録は1951(昭和26)年の日本化薬が初めてで、三井化学の登録は1959(昭和34)年6月と、昭和25年 生産開始とする社史の記載とは時間差が大きすぎます。さらに、PCPはトリクロロベンゼンから直接合成することはできません。PCPはBHCから作られることを三井化学自身が特許(特許公報 昭30-5777)で示しています。このように、文章【B】は矛盾が多く、本来PCPに関する記述ではなかったと考えられます。

【A】【B】2つの文章を 何度も読み返す うちに、文章【B】もまた24Dのことをいっているのではないかと思うようになりました。つまり、元々ひとつの文章だったものを分割したのではないかということです。合成した文章を次に示します。【B】から挿入した部分を《 》で表します。

24Dは昭和25年7月20日付農薬登録888号“三井化学24D”として、《トリクロロベンゼンを原料に月産10トン設備を建設して》本格生産を開始したが、26年5月ICI(英国帝国化学工業)およびACP(アメリカン・ケミカル・ペイント)両社の特許問題から一時中止のやむなきに至った。その後《27年にはフェノールを原料とする自社技術を開発したが、》24Dの需要は水田除草剤として急増してきたため、主原料のフェノール、モノクロロ酢酸、塩素などを自給できる三井化学は、再度本格企業化の準備を開始し、28年12月、ICIと特許実施権契約を締結して、29年1月技術導入の認可を申請。《30年には20トンに増強した。》

ひとつの文章にできるのは、24Dが「トリクロロベンゼン」からでも、「フェノール」からでも作ることができる数少ない候補のひとつだからです。そして、【B】だけでは、昭和25年から生産を開始したのに、早くも《27年にはフェノールを原料とする自社技術を開発した》理由がわかりませんが、合成文にしてみると、26年の特許問題が原因だったことがわかります。また、24Dは 昭和25-26年頃にはまったく知られていませんでしたが、昭和31年の農薬総支出4008円のうち129円を占めるようになっていて(1959.4.30衆院農林水産委員会)、昭和30年代に入って除草剤としての需要増との記述とも一致します。

もちろん、元々一つの文章だったというのは仮説にすぎません。しかし、それは問題ではありません。問題は、なぜPCPに関する記述が削除されたかということです。当初のPCPに関する記述では不都合な点があったので削除されたのではないかと思われます。そのため、急遽 24D の記述の一部をPCPの記述に転用したのではないでしょうか。その「不都合な点」とは、三井化学のPCPが枯葉剤国産化と極めて密接な関係があることではないかと思われてなりません。三井化学のPCPとは何かおさらいします。

三井化学のPCPは、本来のPCPではない、「不合格品」ばかりだったことはGEN597号(第12回)で紹介しました。(以下GEN597号から抜粋)

藤野 繁雄(二院クラブ)は PCPの意外な問題点を指摘しています。除草剤PCPの成分が PCP(ペンタクロロ フェノール)では ないというのです。
(1963.3.29参院農林水産委員会)
「農薬の抜き取り検査状況を調べてみると、昭和36(1961)年度の検査件数がPCP除草剤は5件であって、全部不合格になっている。全部 不合格という理由はどこにあろうか?」
農林省農政局長・齋藤誠
「不合格になりましたその主要な内容は、大体は経時変化――時間がたつにつれまして成分が変わってくるというようなことで・・・」(抜粋終わり)

しかし、PCPは保管中に経時変化したものではありませんでした。製造段階ですでにPCPではなかったのです。三井化学のPCPを製剤化していた三光化学を調査した記録がありました。(GEN599号・第14回、以下引用)

厚生省調査団(団長:上田喜一・東京歯科大教授)が工場の排気設備の付着物を分析したところ、付着物は本来主成分であるべきPCP(5塩素化フェノール)が少なく、4塩素化フェノールを主とする 様々な塩素化フェノールの 混合物であることが判明しました。奇異に感じた上田は製品のPCPを分析したところ、製品PCPすらもテトラクロロフェノール(4塩素化フェノール)が6割もあり、とてもPCP(ペンタクロロ フェノール=5塩素化フェノール)と呼べる代物ではないことがわかったのです。(引用終わり)

三井化学のPCPのような組成になるのはどんな場合でしょうか? ベンゼンを塩素化した後、枯葉剤24D、245Tの原料となる成分を分離し、残った塩素化ベンゼンを加水分解すると、ちょうど厚生省調査団の分析結果と類似の組成物ができると推定されます。つまり、枯葉剤24D、245Tと「三井化学のPCP」は不可分の関係にあるのです。「社史」からPCPの記述が不自然に削除されているということは、昭和25年 当時から「国産 枯葉剤」とは言わないまでも社史編集委員には「製品化までの経緯を表に出せない」と認識されていた農薬だったのではないかと疑わせます。

さらに、「三井化学24D」の生産開始 時期と ICI社などから特許侵害とのクレームがついた時期が微妙です。「三井化学24D」もまた化学兵器(枯葉剤)との関連が疑われます。その頃の出来事を列挙すると次のようになります。

1950年6月  朝鮮戦争勃発
1950年7月  三井化学が24Dの生産開始
1951年4月  マッカーサー解任・帰国
1951年5月  ICI、ACP両社からのクレームで24Dの一時生産中止
1952年     三井化学、「原料をフェノールに変更」
1952年     米軍に245Tの不純物(ダイオキシン)に関する情報提供
1953年7月   朝鮮戦争停戦
1953年12月  三井化学はICIと24Dについて特許実施権契約を締結

三井化学が24Dの生産を始めたのは、朝鮮戦争が勃発した直後でした。ソ連を刺激することを恐れたトルーマン米大統領が、戦線拡大を主張するマッカーサーを解任して帰国させた翌月に、三井化学の24D生産にクレームがついているのです。このことから、マッカーサーは24Dに関する特許問題が存在するのを承知で、強引に三井化学に生産を命じたのではないかと推測されます。マッカーサー解任によりICI、ACP両社が権利の確保に動いた結果、三井化学は一時生産中止のやむなきに至ったのでしょう。特許交渉は暗礁に乗り上げたと思われ、三井化学は特許回避のため原料変更を検討したが、それまで原料としていた「副産物トリクロロベンゼン」が余剰になるという新たな問題が発生。結局、24Dの特許問題は朝鮮戦争の停戦まで解決しませんでした。

停戦後に、ICI社は三井化学に24Dの特許実施権を認めました。その特許交渉の途中でモンサント社より245Tの不純物に化学兵器としての可能性ありとの情報が米軍にもたらされています(GEN610号・第25回)ので、ICI社の関心が245Tに移り、24Dの相対的価値が低下した結果の合意だったかもしれません。245Tはベトナム戦争を象徴する化学兵器となりました。

朝鮮戦争で米陸軍の化学戦部隊が出動したことは米国防総省も認めています。しかし化学兵器が使われたかどうかは不明です。1952年に北朝鮮・中国が、米軍の生物兵器使用を激しく非難しましたが、その証拠となる疫病の流行が自然発生か生物兵器使用の結果なのかわかっていません。ただし、初めて大規模にナパーム弾が使われたことは有名です。(宮田親平「毒ガスと科学者」光人社1991)朝鮮戦争で枯葉作戦が確認されていないのは、案外、特許問題による24Dの供給不足が原因だったのかもしれません。

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■文中で「GEN597号(第12回)」とあるのは「GEN597号(第13回)」の誤記。
■なんだかんだいって 大企業は、戦時はもちろん平時も軍需でボロもうけするし、みえにくいかたちでの「みかえり」があるからこそ、権力者は軍需利権をちらつかせる。■しらぬは、国民と戦闘地住民と。あたまごしで、巨額の国税がとびかい、巨大なリスクがおおいかぶさる。「しらぬがホトケ」ってか?