■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから転載。■シリーズ第48回【リンクはハラナ】。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 634号 07年03月18日
発行:別処珠樹【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@msn.com     
枯葉剤機密カルテル(第48回)         
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枯葉剤機密カルテル           原田 和明

第48回 三井三池争議


ベトナム戦争の時期に、長いあいだにわたって三井化学枯葉剤を生産することになりました。そのもっとも大きな要因は、三井三池の争議で三池労組が負けたことではなかったか と思われます。三井三池の争議は、炭鉱不況を 背景として人員整理をめぐって起きた 労使紛争のようにも見えました。しかしその実態は新しい日米安保条約をむすんで日本の軍需工場化を図るため、政府・財界が仕掛けた労働組合つぶしだったと考えられます。

三池労組が陣取っていた三池鉱山は、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる日本最大の炭鉱で、三井化学の親会社・三井鉱山が所有していました。当時、石炭は日本のおもなエネルギー源でしたから、三池労組は日本のエネルギー事情を左右できる位置にあって、しかも労働者の自治区を形成していました。日本最強の組織を誇っていたわけです。

三池労組が石炭を人質に、安保改定に反対を唱えたらどうなるか? 日本の再軍備化計画に対し、最大の「抵抗勢力」になるとみられる三池労組は、政府・財界にとって安保改定前にどうしても潰しておかなければならない壁だったのです。
1957年6月に、岸信介首相は 日本の経済成長を背景に「日米新時代」の声明を発表しました。この声明は日本側からすすんでアメリカの世界戦略に協力しようというものでした。アイゼンハワー大統領は「時期尚早」と一蹴しましたが、秋に状況は一変します。10月にソ連(現ロシア)が 世界で初めて 人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功したのに対し、アメリカは 12月に人工衛星バンガードの打ち上げに失敗しました。これは ロケット技術による 大陸間弾道弾の開発にアメリカが遅れをとったことを意味し、アメリカは極東戦略の変更を迫られることになったのです。

こうして、日本を前線基地化することを目的として安保条約を改定する作業が始まり、日米双方が 大筋の合意に至ったのは1959年5月でした。三井鉱山経営陣の一部が三池労組と戦うのを決意したのも同年春のことでした。(平井陽一「三池争議 戦後労働運動の分水嶺」ミネルヴァ書房2000)

このころ、三池炭鉱は「労働者自身で各労働者の収入を平均化させるために、割の良い仕事と割の悪い仕事を労働者が交互に輪番制で請け負う制度をつくるなど、さながら 労働者の自治区」(Wikipedia)のような様相を呈していました。当時の日本は、石炭がエネルギー源・化学原料などの主役でしたから、そこに、労働者の自治区が日本最大の炭鉱を管理しているということは、日本をアメリカの前線基地化する政策を推進するにあたって、最大の障壁になると想定されていたと考えられます。

まず、安いアメリカ産石炭と石油を日本に輸入して、炭鉱各社の経営を圧迫した上で、1955年に「石炭鉱業合理化臨時措置法」を制定しています。この法案は「石油と価格面で競争することを目的として」中小炭鉱をスクラップ化して大手炭鉱の 生き残りを図るものでした。そして、中小炭鉱を 閉山に追い込んだ後の1959年末、三井鉱山は「炭況不振を1200名の解雇で調整」する合理化案を労働組合に示して、ロックアウトを先制的に仕掛けました。

この合理化案には、保安委員・職場活動家・保安のベテラン坑夫など職場のリーダー層を「生産阻害者」として根こそぎ指名解雇するねらいが露骨に現れていました。これが「総資本 対 総労働」といわれた三井三池争議の始まりです。

争議の狙いは「経営再建」ではありませんでしたし、当事者も三井鉱山ではありませんでした。59年11月に中央労働委員会(中労委)が「指名解雇にこだわらない」という斡旋案を示しましたが、この斡旋案を拒否したのは三井鉱山の経営陣ではなかったのです。斡旋案の受入れでまとまりかけた三井鉱山の常務会に次の情報がもたらされています。

日経連及び銀行筋が非常に強固だ。銀行は、斡旋案の線(指名解雇にこだわらない)では会社の再建はできないので33億円の融資を含め一切の融資を中止すると言っている。」

斡旋案を拒否したのは「財界」でした。財界は三井三池の争議で三井鉱山を支援したのではなく、争議を主導していたのです。

官房長官・椎名悦三郎は中労委会長のことを「招きもしない座敷にノコノコでてきたピンボケ芸者」とやゆしています(平井陽一「三池争議 戦後労働運動の分水嶺」ミネルヴァ書房2000)ので、自民党政府も、三井三池争議の狙いを熟知した上で加担していたことは明らかです。政府と財界が一体となって三池労組をつぶしにかかっていたのです。

中労委の斡旋が失敗したことで、三井鉱山の労使はふたたび直接に対峙することとなりました。会社側は組合に対し、職場活動家の指名解雇を通告した後、新・日米安保条約が調印(1960.1.19)された直後の1月25日に、三池炭鉱に先制的なロックアウトをかけました。そして水面下では、三池労組に第二組合を作るため猛烈な働きかけがなされたのです。第二組合のみに就労を認めることで第一・第二組合を衝突させ、工場から締め出された第一組合員を生活苦におとしいれ、不安を増大させ、第一組合員の激減 あるいは 組合消滅といったパターンを狙ったのです。(平井陽一「三池争議 戦後労働運動の分水嶺」ミネルヴァ書房2000)

このときの三井鉱山の戦術の違法性について阿具根登(社会党)が労働大臣・松野頼三に質しています。(1960.3.21参院予算委員会)

阿具根登
労働法の精神に照らしてロックアウトの先制はいいのですか? 会社が自分の言うことをきかないならば働くことはいらないということは、飯を食うことはいらない、こういうことになるわけです。こういうことが実施されているのは正しいあり方であるか? そして三井には六つの炭鉱がございます。その六つの炭鉱が同じような争議行為を、同じ組織のもとでやっている。それに対して三池だけにロックアウトをやったということは、これは三池だけを目標にした先制行為だと、かように思うのですが、いかがですか。さらに、会社(三井鉱山)が職制を使って、また各労働者の家庭を訪問し、組合の切りくずしをやっているという現実がありますが、これは不当労働行為だと私は思うのですが、いかがですか。」

労働大臣・松野頼三
「現実問題としては、やはりロックアウトを先制的にやったという例は非常に少ない。(不当労動行為に該当するかどうかの)具体的な問題は労働省で調査をいたしておりません。一々個々の問題はやはりそれは所管の委員会というものが実情を調査すべき性質のものでございますので、まだ私どもの方でそういう一々の事例については調査も報告もいただいておりません。」

労組側は「三池の貯炭量と関連産業の使用量から判断して、三ヶ月すれば貯炭は底をつき、会社は窮地に追い込まれる。」と見こんでいました。(平井陽一「三池争議 戦後 労働運動の分水嶺」ミネルヴァ書房 2000)

ところが、1960年3月に政府は 三井化学と三池合成(1962年に三井化学と合併)のために 2万トンの原料炭を緊急に輸入し、「関連産業」の操業に支障がでるのを防いでいます(この当時、両社の使用量は月4万トン)。そのため争議が長引き、収入の道を断たれた組合員たちが離反し始めました。

緊急輸入の決定に対し、阿具根登は「三井鉱山がロックアウトをやって石炭が少なくなったから、外炭を緊急輸入してそれをカバーするということは、一方的な措置ではないか?」と 政府の労働争議への介入に疑義を呈しています。(1960.3.21 参院予算委員会)

それに対し、通産大臣・池田勇人は「今、三井化学、三池合成に対しまして産業を停止するというわけには・・・」と言葉をいったん呑み込んだ後、「私は通産大臣といたしまして、そういう産業、工場に対しまして輸入炭でまかなうことは通産大臣として当然の措置であると考えています。」と答弁しています。なぜ今、三井化学を特別扱いするのかについては回答していません。この当時の化学原料は多くを石炭に依存していて、爆薬や枯葉剤の原料も原料炭から得られていたのです。

阿具根
「通産大臣として当然な措置だとおっしゃいますけれども、それではただいま言われました原料炭を出しておる三井三池は、全部原料炭ではございません。一時的な現象でそのつど緊急輸入をしなければならないような、そういう行き詰った状態なのですか? また、政府が原料炭を緊急輸入するということは、政府が企業ばかりを援助しているということにはならないのでしょうか?」

池田
「ストおよびロックアウトの相手は三井鉱山でございます。だからといって、その土地にある三井化学が事業を停止するわけにはいきません。従いまして最小限度の輸入でまかなうより致し方がないのであります。」

阿具根
「三井(鉱山)がロックアウトをやったから、三井化学の事業がとまる、そういうことは決してございません。しかし通産大臣は、これを非常に強く考えておられるようでございますが、(三井鉱山が)ロックアウトをやっておるからこそ全部の石炭業者は北海道からまでも石炭を運んできておることは御承知の通りでございます。」

このやりとりからも、日本政府が三井化学の操業を格別に擁護している様子がうかがえます。池田勇人は、政府が三井化学を別格扱いしていた理由を明らかにしませんでしたが、三池争議の時期に、国が三井化学の原料供給を支援しているのも、労組つぶしとともに進行していた「プロジェクトの存在」をにおわせます。

南ベトナム(現ベトナム南部)ではアメリカの支援を受けたゴ・ディン・ジェム大統領の政権が 腐敗し、圧制を行っていた ため、政情が安定しませんでした。1960年には北ベトナム(現ベトナム)に指導された南ベトナム解放民族戦線(通称・ベトコン)が結成されています。ジェム大統領は61年にアメリカと軍事援助協定を結びました。この結果、南ベトナムにアメリカから大量の武器弾薬・戦闘機・輸送用航空機などとともに、多くの生物化学兵器も持ち込まれました。枯葉作戦は早くもこの段階から始められているのです。

戦争を遂行するために排除された労組の職場活動家は、職場の保安をつかさどるキーマンたちでもありました。労働の環境が劣悪だった三池炭鉱で被災した亡者は1945年(昭和20年)の120人から 1960年には1名にまで減少し、さらに1955年下期には落盤ゼロも達成しています。事故が減ったのは、労組が「鉱山保安法」を徹底して守る保安順法闘争をやった結果でした。

しかし、三池争議で労組が敗けたことにより「生産阻害者」がいなくなり、保安委員会が壊滅しました。そのため保安教育も形骸化し、1961年から死亡事故は増加に転じています。そして1963年11月、ついに三池炭鉱・炭じん爆発事件を引き起こしてしまいました。死者458人、一酸化炭素中毒 839人という大惨事でした。
このあと 炭鉱の爆発事故がつづいた時代を経て、1986年に 日本政府は「第八次石炭政策」で 国内の石炭エネルギー資源を放棄する決定をします。ついには、1997年3月に わが国最大の三池炭鉱は閉山し、有明海に水没しました。(森弘太、原田正純「三池炭鉱」NHK 出版 1999)

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■原文では、「不当労働行為」が「不当行為」となっていたので、訂正してある。

■労働運動をおさえこむために、不当労働行為をくりかえし、それを政府が援護する。まさに政官財一体の労働者弾圧だったと。■戦後もかわらない「富国強兵」政策。ただちがうのは、日本軍が自衛隊として編成がえされ、米軍と敵対関係でなく、同盟軍として「後方支援」部隊へと変貌をとげたことだけだろう。■あいかわらず、化学工場をかかえる旧財閥系資本は国策会社であり、政府のロコツな保護をうけて、米軍のベトナム戦略という愚行を「後方支援」していたのだった。

■エネルギー政策の転換でつかいすてにされた炭鉱労働者と家族たちに合掌。