■先月すえの『朝日』の社説から。

原爆症不認定―5連敗の事実は重い

 せっかくの公的な救済制度も対象は限られ、司法が見直しを迫ろうと、行政はかたくなな姿勢を変えない。その間に被害者は老いていく。頼みの政治の動きは鈍い――。

 水俣病など公害の認定問題で何度も目にした悲劇が、また繰り返されている。原爆症の認定を拒まれた被爆者が起こした訴訟のことだ。

 13歳だった長崎の被爆者は、爆心地から6キロのところで爆風に吹き飛ばされた。爆心近くの自宅は全焼した。瀕死(ひんし)の父を捜し出したが、その間に放射能に汚染された「黒い雨」を浴びた。

 60歳をすぎて食道や肝臓にがんが見つかり、原爆症の認定を申請したが、認められないまま亡くなった。

 こうした被爆者30人とその遺族が、国に不認定処分の取り消しを求めた裁判で、東京地裁は21人について原爆の放射線が原因との判決を言い渡した。
 被爆者は26万人もいるが、原爆症と認められたのはその1%にも満たない。認定から外れた人々が各地で起こした訴訟では、昨年5月の大阪以降、広島、名古屋、仙台の各地裁で、不認定処分が取り消されている。

 今回の東京地裁の判決も含め、5度にわたって認定審査のあり方が批判され、救済された被爆者は原告の9割の75人に達した。政府は深刻に受け止めなければならない。

 国が判定のよりどころとしているのは、放射線量の推定をもとにがんなどの病気が起こる可能性を統計的にはじき出した「原因確率」だ。

 司法の場では、この手法を機械的に適用すべきではないとの判断が相次いでいる。東京地裁の判決も「科学的根拠の存在をあまり厳密に求めることは、被爆者の救済を目的とする法の趣旨に沿わない」と言い切った。

 通常の人がさまざまな知識を総合したうえで、原爆症と判定するだけの根拠があるかどうかを判定の物差しにすべきだというのだ。

 放射能による後遺症という、過去になかった戦争被害を救うのが被爆者援護法だ。立法の原点を踏まえ、限界のある科学的知識を盾に取る審査を見直すよう求める判決に、共感を覚える。

 原爆症と認められると、医療費のほかに月14万円ほどの医療特別手当が支給される。財政赤字を減らすのに躍起な国は、認定を厳格にしがちだが、被爆者は高齢化し、亡くなる人が増えている。訴え出れば認定される被爆者まで切り捨てるような事態を放ってはおけない。

 ようやく自民党や民主党の有志議員の間から、国は控訴して争うべきでないとの動きが出てきた。政府に求められるのは、全面解決に向けた救済の仕組みを考えることではないか。

 いつまで、こうした不毛な争いを繰り返すのか。行政が被告となった訴訟を専門に扱う裁判所を設け、短期間に決着させる制度を検討してもいい時期だ。

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■でもって、朝日の10日ほどまえの記事も転載。■念のため、キャッシュでリンク。


原爆症訴訟、21人不認定取り消し 東京地裁、9人棄却
2007年03月22日12時11分
 広島と長崎で被爆した30人(11人は死亡し遺族が承継)が、原爆症の認定申請を却下した国の処分取り消しと1人あたり300万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が22日、東京地裁であった。鶴岡稔彦裁判長は病気と放射線との因果関係を認め、21人について不認定とした国の処分を取り消した。9人の請求は棄却した。賠償請求は全員について認めなかった。

東京地裁に入る原告ら=22日午前9時23分、東京・霞が関で8ca684d3.jpg


 判決は因果関係について「合理的な通常人が、病気の原因は放射線だと判断するに足る根拠があるかどうかという観点から判断するほかない」と述べた。そのうえで、国の審査方針について「認定基準の機械的な適用は、放射線リスクの過小評価をもたらすおそれがある」と指摘。被爆者に厳しい対応を批判した。



原告らの前で「勝訴」の垂れ幕が掲げられた=22日午前、東京・霞が関で677496c9.jpg

 
 一連の集団訴訟で判決は5件目。国側の「5連敗」となった。被爆者援護法に基づく原爆症の認定行政を担当する厚生労働省は「一連の判決は科学の常識に反する」と、相次ぐ敗訴にも徹底抗戦の構えを崩さない。大阪訴訟などで控訴。20日に敗訴した仙台に続き東京でも、判決前から敗訴の可能性を織り込み、控訴を念頭に検討していた。

 集団訴訟は全国の17地裁で起こされ、長期化する中で死亡する原告も目立ちはじめた。日本原水爆被害者団体協議会(被団協)は「残された時間は少ない。国の開き直りは許されない」と早期の政治決着を求めている。

 国は、爆心地からの距離をもとに放射線量を推定。性別や年齢などによるリスクを病気ごとに加味する「原因確率」を認定基準の柱にしている。原告側は残留放射線による外部被曝(ひばく)や、放射性降下物を吸い込むことによる内部被曝の人体への影響を考慮していないと訴えた。国の審査方針について判決は「科学的知見にも一定の限界がある。科学的根拠をあまり厳密に求めると、被爆者救済を目的とする法の趣旨に沿わない」と批判した。

 東京訴訟は03年に提訴。30人中25人が原爆投下時に爆心地から1?7キロの地点で被爆。4人は広島、1人が長崎に、投下後に入市。放射線の影響を受けたと主張した。

 判決は、原告9人については、被爆地点が爆心地から約7キロの遠距離だった▽入市の事実は認定し難く、喫煙歴などを考えると、肺がんの原因が放射線と認めるのは困難――など、被爆状況や被爆後の行動、症状の経過といった個別の事情に着目。請求を棄却した。一部原告の請求棄却は名古屋訴訟に続き2件目。
 

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■国は、そのメンツ(正統性/一貫性など)をまもるとか、「節税」とかのためだけに訴訟でねばり、高齢者がしにたえるのをまっているかのような姿勢だ。■「被爆者は26万人もいるが、原爆症と認められたのはその1%にも満たない」とは、ほとんど原爆症をみとめないも同然ではないか? それは、検察官が起訴すると1000人にひとりしか無罪にならないのとにて、異様な厳密さである。「科学的根拠の存在をあまり厳密に求めることは、被爆者の救済を目的とする法の趣旨に沿わない」といった東京地裁のいいぶんも、どうかとおもう。これは、「あしき科学主義」による排除・きりすて認定というべきだろう。■「被爆地点が爆心地から約7キロの遠距離だった▽入市の事実は認定し難く、喫煙歴などを考えると、肺がんの原因が放射線と認めるのは困難――など」などと、棄却するとかもね。■「賠償請求は全員について認めなかった」ような判決が実質勝訴といってよいのだろうか? 高齢者が原告だというのに、法的な整合性だけで、いいかえれば、法律家のなかでの評価だけえられれば、それでいいのか?

水俣病の認定でも、最高裁と厚生労働省の基準がズレ、自治体が政府にそむいて判例にそった基準のみなおしにあゆみだしているが、厚生労働省とは、国民の健康・福祉のための官庁でなく、業界団体と政府のための 緩衝材=ゴマカシ装置というそしりをまぬがれまい。■さして先進的ともおもえない判決がマシにみえるような政府のかたくなな姿勢は、わるい意味での「公僕(=公権力の下僕)」というほかない。

●「水俣病認定、新潟が緩和…新基準策定へ」(『読売』医療と介護
●「カネミ油症仮払金問題、対象者の9割返還免除へ…自民方針(読売・九州)