■「飛騨屋久兵衛論序説」に触発をうけた前回は、もっぱら実証史家たちの修正主義者や大衆とのたたかいという政治性に議論をしぼった。■今回はもちろん、公教育を軸とした「通史としての日本史教育の政治性」自体に論及したい。
■といっても、前回のべたことで、主旨の過半はのべてしまったようなものかもしれない。■歴史研究者の段階でかかえこまれた問題点が、教員養成課程に影響をおよぼさないはずがないし、ひいては それらが公教育に直撃するだろうことは、ほぼ確実だからだ。
■ともあれ、一応「おさらい」しつつ、補足しよう。

■歴史学界の周縁部分に位置する研究者や、「外野」から意識的に「外圧」をかけようとする層が批判するとおり、実証史家たちがくりかえしてきた営為には、つぎのような致命的な問題がはらまれていた。

■?実証史家は、「自画像」として、過去の事実の復元技術=科学の体現者という自負をもちながらも、野蛮でみのほどしらずの修正主義者たちの攻撃に苦戦をしいられているが、■?それは「文献至上主義」という「科学主義」のかかえる死角と、「正史」が科学的作業によって構築されるものではなく、「わかりやすさ(受容しやすさ)」「人気競争」といった、「多数決原理」という政治的産物にすぎないこと、■?史資料の解釈といっても恣意性の介入を完全排除することはできない=実証史家自身がかかえる史観・価値観の介在がさけられれないこと、双方への無自覚・鈍感さがあった。■?しかも「通史」という、「国民国家の〈物語〉≒主軸をなす有力民族中心の目的論的連続性イメージ」の構築作業になるほかない非常に政治性のたかい作業に、無自覚に歴史家たちは、たずさわってきた。
■つまり、?修正主義者とのヘゲモニー(優劣関係・布置関係)闘争で実は劣勢であるといった皮肉な現実のみならず、■?「資料批判」という科学的てつづきをどんなに厳密につみかさねても、その解釈に介在する史観と〈物語〉構築作業という政治性という、科学の「客観性」とはおよそ矛盾する要素を、実証史家自身がかかえこんでいるのである。
■?その結果、「いき証人」の「証言」という文献資料以外の材料も総動員しなければ、大衆や裁判官に対する印象操作闘争(反修正主義闘争)に必然的に敗北するという宿命をおいつづけているし、■?「通史」という装置自体が、かなり「あやしげな」産物である(というか、ほとんどが時空上の連続性を「証明」し「安心」しようとする共同幻想である)という現実を大衆にしらせることなく、権威主義による説得力増強といった、およそ「科学」とは正反対の方向性にはしるばかりでなく、■?「資料批判によって刻々と修正を余儀なくされる過去の像」という歴史家の共有物が、俗流化するかたちで「正典=聖典」として、教科書やドラマなどのかたちで流布し、大量再生産・通俗化・化石化するという、あまりに無残な現実がくりかえされる。

■もはや、大学での教員養成課程や中学高校・予備校・大学入試などへの悪影響は、あきらかだろう。
■そうなのである。■?「『天皇制という形式が たまたまとぎれなかった』といった偶発的経緯」とか、■?「律令制の形式や天皇制という伝統をかたちばかり『復古』させるかたちで、モジどおり『和魂洋才』式に近代的国民国家を急造した明治政権の革命の意義とか、『創造された伝統』など、およそ自明の伝統でなどない歴史的現実」とか、■?それら、きわめて政治性のたかい共同幻想が「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)にすぎないことは、当然のようにふせられてしまった。■?教師が日本史」という「通史」=イデオロギー装置の政治性に無自覚であり、教科書が資料集どころか目的論的な〈国民の物語〉をあからさまにえがいているのだから、生徒・受験生がきづくはずがない。■?しかも、大学の教員たちは、こういった〈国民の物語〉のおしつけを、大学の講義で一丸となって破砕する連帯をくむことなどないし、教員養成課程でも、入学試験という絶好の機会を利用することもないのである。■?いってみれば、Wallerstein氏のような奇特な人物以外は、〈国民の物語〉のおしつけをくりかえすか(教職科目)、資料批判の方法論および実践の「修行」という、政治性から逃避した「科学主義」信仰の徒弟制度を維持するか(文学部史学科)、いずれにせよ、公教育・入試体制で再生産される「通史」というイデオロギー装置の解体作業から逃避したままなのだ。
■これは、前回のべたとおり、修正主義者から大衆を離反させるという反修正主義闘争のためにも非常に悪影響をおよぼすが、ことはそれだけにとどまらない。■?要は、アカデミックな空間(≒「密室」)でもって、超越論的な「たかみ」にたった、厳密な資料批判が伝承される一方、大衆は修正主義者のデマゴギーにまったく免疫力をあたえられないまま放置されているという、実に大衆蔑視的な体制が維持されているということだ。

■なにも、「天皇制の神話性をあばきたてて、反天皇主義者をふやすべきだ」とか、「前近代史など重要でないから、明治維新体制以降の帝国の負の遺産と戦後体制の連続性をとくべきだ」といった、政治的主張を展開したいのではない。
■?「想像の共同体」としての「近現代日本」を冷静につきはなした視座から観察し、俗流化した「通史イデオロギー」から解放される、といった権利を市民がもっているはずだし、■?無作法で厚顔無恥な修正主義者の非科学的なデマゴギーを横行させるような、貧困な知的風土を改善する責務を歴史家は研究と並行した作業として責務をおっているだろう、ということだ。
■?そのような、地球市民にして、諸民族の共存をいきているわれわれにとっての、基本的な歴史的素養をみにつけさせず、単なる「暗記科目」として消費され、俗流イデオロギーの横行を容認してしまっている研究者・大学人たちは、怠慢であり、犯罪的ではないか? と。■?そして、こういった構造に無自覚であるとか、自覚はあっても「自分は価値ある実証主義的研究の実践者なので、そういった なまぐさく、かつ みのりのない雑務で、てをよごしたくない」などと、逃避をきめこんでいるなら、それは「国民国家のイデオロギー装置」のはぐるまのひとつに、ほかなるまい。

■すくなくとも、大学人としての歴史家は、こういった「外野」からのソボクな疑問・要求に対して、応答責任があるとおもうし、Wallerstein氏のような奇特な人物が個別にオーバーワークを展開するといった さきのみえない状況に具体案をしめす責務があると信じる。
【これで おわるか、未定】