■「通史としての日本史教育の政治性2」から、ゆるくバトンタッチ。■国家・ナショナリズム論にいれるべきかどうか、まよったが、準シリーズ的様相をしめしてきたので、一応「教育現象」に分類。

尾藤正英日本文化の歴史
(岩波書店2000年)は、いわゆる岩波新書の1冊なので、「日本史教育」現象ととらえることには、ムリがあるという見解もあるだろう。■しかし、岩波新書という媒体は、教養主義の伝統をひきついだブランドにほなからず、その意味では、社会教育=成人教育の象徴ともいうべきものといえるだろう。■したがって、近世文化史の専門家が、日本列島上の文化現象の通史をかきおろすという趣旨の刊行物は、ある意味、「本シリーズ」のかっこうの対象といえる。

■ここでは、執拗ともいえる激越な酷評を、転載しよう。何度かひいた ましこ・ひでのり日本人という自画像
〔三元社2002年〕の、いささかながい一節〔pp.174-6〕である。
--------------------------------------
……『日本文化の歴史』は、日本を代表する近世思想史研究者のひとりによる通史である。すでに鹿野政直の以前の指摘を紹介しておいたとおり、「日本思想史学」の構成要素たる「日本」「思想」「史学」という概念いずれも自明でない以上、「日本文化史学」が自明でないことはいうまでもない。しかも、「日本」という概念が自明でないということは、時空的境界を明確に設定できず、したがって「通史」という記述スタイルが一種のイデオロギー性をおびるという政治性への配慮が不可欠になるということである。しかし、筆者には、そういった自覚はうすい。……
   ■たとえば、冒頭ちかくに配置された「日本の原始文化」とか、「日本人の起源」といった節をあらわす題名が、縄文人にまで日本民族の起源をさかのぼらせる本質主義を露骨にうちだしている。本書で批判した、網野善彦やブルース・バートンらでさえ、「日本」の起源を7世紀以前にはもとめないのに。つまり第1章「日本文化の源流」の冒頭から、俗流イデオロギーのかおりがたちこめる構成となっている。
   ■しかも、批判をかわすために、しっかりと予防線がはってあって、縄文人と弥生人の混血の程度には地域差があって、アイヌ民族や沖縄人は縄文人の特徴をつよくのこしているから、同列には論じられないとする。そのうえでなお、「単一性に近い民族構成をなしていることが、統一国家の形成にとっては有利な条件として作用したであろうし、その後の文化の発展にも特色をおびさせたであろう」と総括する[尾藤:14]。いわゆる「均質的でよかったね」路線である。そのうえで、「なお、日本文化の歴史としては、右のアイヌや沖縄(沖縄の人々は、明治維新まで琉球国として別の国家を形成していた)を含めて考察することが望ましいが、それではあまりにも多岐にわらるおそれがあるので、本書では、右に述べた混血の進んだ地域、すなわち本州・四国・九州とその付近の地域を中心に考えてゆくこととしたい」とのべて、列島の両極をうまく除外してしまう。要は、「ヤマト的でない例外的地域」という規定をしているのだが、説明上の利便のようなくちぶりで、巧妙にごまかすのである。異質であり、一貫した説明が不可能だという、いわば、帝国としての近代日本の本質的矛盾がふきだしていることを、ぬけぬけとすりぬけている。
   ■もうひとつの露骨なイデオロギー的記述とおもわれるのは、第8章「国民的宗教の成立」である。幕藩体制期前期に檀家制度をはじめとした「葬式仏教」が定着し、しかもそれは江戸幕府の作為によるものではなく、当時の趨勢を幕府が追認しただけであるとする。そのうえで「寺院が死者のための葬式や法要を主たる任務とするようになったのは、仏教の本来の精神からすれば、逸脱であると見られる」が、「すべての人が死後には葬式をしてもらえるようになったというのは、それ以前に比べると画期的な変化」なのだと、積極的に肯定する[同上:129-30]。教義上の逸脱というより、体制化し腐敗したからこそ、「葬式仏教」との批判をあびつづけたきたのに、「国民的宗教」なのだと、完全に追認してしまう。そのうえで、「死者に戒名を付けるのも、日本では普通の習慣になっているが、戒名とは、受戒した僧に授けられる名のことであり」と歴史的経緯をのべているにもかかわらず、「その戒が、死ねば誰にでも授けられるというのは、死者を仏道に導き入れる意味であろう」と、あきれた合理化をする[同上:130]。なんのことはない、受戒というエリート主義的な通過儀礼であったものが、腐敗した法王庁が乱発した免罪符同様変質=インフレし、かねもうけ=坊主の食い扶持として制度化されたにすぎまい。
   ■また、「埋め墓」と「詣り墓」の分離=両墓制が「浄化された霊魂に対比して、けがれの観念も明確に」することとなり、「このことが、墓地の管理や牛馬の死体処理などに当たる人々への差別を強めた点にも注意する必要がある」[同上:133]とする筆者が、近代にもひきつがれた被差別部落への戒名差別の存在をしらないはずはあるまい。
   ■筆者が通史としてえがいたのは、日本列島全域の住民に本当に共有された文化ではなくて、体制が容認した多数派文化というべきであろう。戦国大名や幕藩体制に抵抗した、いくつもの仏教勢力やキリシタンたち、恐山のイタコのようなシャーマニズムをみても、筆者がえがく精神文化は、列島の一面しかつたえていない。それは、現体制にとって、つごうのよい「自画像」ではあろうが。
   ■日本語の連続性といった、おなじみの話題に関しては、読者の推察のとおりなので、のべない。筆者にとっては、縄文時代から一貫して「日本」が実在するらしいのだから。……

--------------------------------------
■著作権違反くさい長々文の転載だが、それにしても激越。個人的うらみがあるのではとおもわせるほどである(笑)。■が、ましこ氏、基本的にこの線で文章をかいており、突出したものではない。
■いずれにせよ、尾藤先生のような御仁が陸続とあらわれ、それに疑問をもたない大衆・保守的知識層がヨイショをつづけるかぎり、「天壌無窮の日本文化」は、「千代に八千代に」連続するはこびとなろう。
■みものなのは、新自由主義派(ネオリベ)と新保守派(ネオコン)が、どこでバトルをはじめるかだ。■「自由主義者」にとって、「日本の伝統文化」なんてのは、市場原理主義者ミルトン・フリードマン御大が「企業の社会的責任が容認される場合」とは「利益追求のための方便であるときだ」のと同質な意味で、イメージ戦略の素材でしかないはず。「日本文化の連続性なる幻影=神話の強調が容認される場合」とは「利益追求のための方便であるときだ」と、かきかえてみると、ネオリベ/ネオコンの真の対立軸が浮上するはず。■「男女の別」であるとか、「長幼の序」「天皇家など伝統的権威に対する畏敬の念」とか、保守派が「かくれネオリベ」のカムフラージュに「伝統」を利用しているだけならともかく、かれらの「徳目」「美風」なんてもに、真の自由主義たちは、「カケラ」ほどの尊崇の念などもたないだろう。■能楽であれ、歌舞伎であれ、大相撲であれ、伊万里焼であれ、それをパトロンとして保護したいという富豪・国家があるときのみ、つまり「市場」の周縁が反応するときのみ、意味をみいだすだけで、その本質がどんなに上質であろうが、ふるさをもとうが、そんなこと、しったこっちゃないし、ましてや「民族文化の連続性」なんて イデオロギーには、かかわりあいをもたないはずだ。■もちろん、そういった幻影にすがる大衆を、「市場」として利用することはあってもね。


●日記内検索結果「日本 連続性
●日記内検索結果「日本文化」