■「改憲と護憲のポジショニング・マップ(ヘンリー・オーツ氏)」の続編。■「ヘンリー・オーツさんのマトリクス図はお粗末過ぎる。本来ならこう描くべきだ、「憲法を取り巻く現状と目指すべき方向」。」への暫定的回答でもある。

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■まずは、「改憲と護憲のポジショニング・マップ(ヘンリー・オーツ氏)」の改訂版だと称する、その図解をはりつけよう。
■いいたいことは わかるんだが、同時に、こちらがヘンリー・オーツ氏に「独裁国家⇔民主国家って軸と、「国家にとっての理想」⇔「国民にとっての理想」って軸を、方便とはいえ直交させる意義は微妙」とツッコミをいれた趣旨・主旨が全然ご理解いただけていないことも、よくわかる(笑)。■もちろん、私擬憲法のこころみ同様、こういったマッピング自体が不毛といいたいのではない。
■もともと、マッピングとは、あくまでも仮説の図式=視覚化というかたちでのモデルの一種であって、それ以上でもそれ以下でもない。■ごくごくマレに「決定版」的で「めからウロコ」的な、うつしくいものもありえるが、課題群の視覚的整理をおこなうことで、論点整理の「たたき台」になればいいのであって、画期的な図式かどうかは、読者・利用者の歴史的判断にまつよりほかない。

■では、ハラナの私見を以下列挙する。■SOBA氏は、かなりあつくなっているらしく、「何はともあれ、下記を読んでください。それにしても左翼がこれほど馬鹿でアホだとは思わなかった。(笑)」とまで、こちらを攻撃にはいったので、もはや冷静な議論は困難だろう。■なので、あちらが冷静な姿勢を明確にしないかぎり、いっさい応答する気はない(右派層で、一定以上の読解力があったなら、こういった「論争」自体、「低水準で、あいてにする必要なし」と、せせらわらうだろう)。

■①ヨコ軸の「国民にとっての理想」と「自公にとっての理想」を両極に対比する根拠がまったく不明である。■SOBA氏は、自公路線を自明のように「非国民」的価値指向ととらえているだろうが、すくなくとも有権者の3分の1は拒否するだろう。■SOBA氏は、自公路線を消去法的にしろ支持する、すくなくとも有権者の3分の1を「非国民」とみなすわけだ。■この「国民」概念の独善的なイメージ化ひとつとっても、とうてい日本列島の政治的布置関係を冷静にかたるだけの心理にないことを露呈している。■ハラナは、自公民路線をよしとおもわないし、自公民路線を支持する層の一部はあきらかに自分のクビをしめる選択を、おそらく誤解のうえにおこなっているとみているが、それはそれで政治的現実であると、とらえている。なげかわしいとはおもうが、そういった事実を直視することを拒否しない。

■②「改憲と護憲のポジショニング・マップ(ヘンリー・オーツ氏)」にツッコミをいれたのは、単なる「おもいつき」での「あげあしとり」でなどない。■基本的に、2×2の4つの象限に分割される、しかも「量的分布」を想定したXY座標的図表をつくるかぎりは、タテ軸/ヨコ軸は、基本的に別次元に属するモノサシでなければならない。
■一番単純なのは、第1象限しか存在しない、「ヨコ=体重,タテ=身長」の相関図とか、「ヨコ=受験生の英語の得点分布,タテ=受験生の数学の得点分布」の相関図といったものだが、ヘンリー・オーツ氏やSOBA氏、そして、上野千鶴子氏ら社会学者の相当部分がおすきな図解は、2×2の4つの象限に分割される、しかも「量的分布」を想定したXY座標的図表である。■操作的に「-」方向の序列化は不可能でないものの、価値判断がからむ以上、どこを原点O(数値的には「0」)に設定するかは、非常にむずかしい。
■政治意識の布置関係を量的分布としてマッピングするとなれば、「日本版ポリティカルコンパス」でおこなわれているような、統計学的な処理がなされるしかないわけで、右派とは左派とかが、自分の直感にたよって、政策もつ価値観の位置とか、特定人物の位置どりなどを、適当に序列化できるような質のものではない。

■③ヘンリー・オーツ氏に「独裁国家⇔民主国家って軸と、「国家にとっての理想」⇔「国民にとっての理想」って軸を、方便とはいえ直交させる意義は微妙」とツッコミをいれた議論をさらにおしすすめよう。■たとえば「強権的な国家権力による強力な指導をよしとする層(権威主義パーソナリティ系)」と、「消去法的に人気投票方式を受容する層(近代主義/リバタリアン系)」とが両極にあるような ヨコ軸を設定するなら、「独裁国家⇔民主国家」というタテ軸は不要になるのである。■あたりまえだ。基本的に次元がおなじことを、いいかえているにすぎないからだ。
■「日本版ポリティカルコンパス」が仮説・調査としてすぐれているのは、「政治的な右・左度(保守・リベラル度) /経済的な右・左度(市場信頼派・政府介入派) 」という、基本的に自律的な価値分布をクロスさせている点だ。■もちろん、政治経済的なイデオロギー性は、各自別個に自律なんぞしていない。政治経済学(Political Economy)という領域があるし、政治とは、結局徴税+再分配という調整作業なのであり、それへの関心が階級的・階層的出自・所属によってヒズミがれない方がヘンだという意味でも、政治・経済は、事実上きりはなせないからだ。
■しかし、それでも、理念型として、政治的価値と経済的価値とは、別個にとらえうる。人気投票による議会政治と、官僚制にもとづく中央政府・地方政府とは、ユチャクしつつも別個の組織・空間だからだ。■事実、議会の政治的布置情勢と官僚たち、とりわけ技官たちのもつ価値指向には、「一枚いわ」といいかねる、うめがたいミゾがみてとれる(左派のおおくは、それを直視したがらないが)。
■また諸個人としても、政治的に自由をもとめながら(政治的左派)、経済的に市場機構に悲観的で政府介入やむなし(経済的左派)というリベラル左派とか、政治的に保守的なのに(政治的右派)、経済的に市場機構に信頼をおく(経済的右派)という、一見矛盾したたちばも現にあるわけだ
〔これら両者は、通常、一般的な左派/右派に分類されてきたが、政治的に自由主義ととおせば市場原理主義派の暴走をとめる根拠をもたず、政府介入は「はたいろ」がわるいし、政治的に保守的な価値序列をおもんずるかぎり、市場原理が「伝統」的な「醇風美俗」など維持できるはずがない〕

■④ヘンリー・オーツ氏にいれた「独裁国家⇔民主国家って軸と、「国家にとっての理想」⇔「国民にとっての理想」って軸を、方便とはいえ直交させる意義は微妙」とのツッコミは、基本的には軸のむきをかえただけで
〔上下左右逆転が、さも「お粗末」さを解消し、「本来」のすがたに復元されたかのように、作者は自信満々だが〕変種にすぎないSOBA氏のマッピングにも、そのままあてはまる。■当然だが。
■かりに、ヨコ軸の「国民にとっての理想⇔自公にとっての理想」と両極に対比することが、かりに妥当だとしよう。だとしても、「民主国家⇔独裁国家」と対比させるタテ軸と、実質おなじモノサシだとおもわれる。
■もちろん、両者を理念型として区分することは可能である。独裁的な国政によって「国民にとっての理想」を実現しようとした、キューバをはじめとした社会主義諸国とか、てつづき上民主主義的な「自由投票」のつみかさねで「自公にとっての理想」を実現してきた日本列島とかね。■しかし、SOBA氏のマッピングが、そういったアイロニカルな政治的現実をふまえた、にがみばしった客観主義的モデルを構想したとは、到底おもえない。
■もし、この推定が邪推でないなら、SOBA氏はヘンリー・オーツ氏と同様、直交させるあたいする相互に自律的な理念型にもとづくXY軸を設定しえたわけではない。■自分たちが直感した仮想敵
〔実態として「一枚いわ」という保証のない〕をかってにイメージして、みずからの理想と対比することで、自派の優位性を夢想するという、はなはだ自己満足的なモデリングをしたことになるわけだ。

■⑤ちなみに、『広島瀬戸内新聞ブログ版』の「政界再編の座標分析」は、ヨコ軸に「反グローバリズム⇔グローバリズム」を対比させ、タテ軸に「リベラリズム⇔権威主義」を対比させるという、一見の価値がある図式だ。■XY軸は基本的に別次元の価値序列で数値化が可能だし、自公民という保守系与野党の、おどろくべきバラつきと、それら矛盾を縫合(「大同団結(小異をすてて大同をとる」)しえている政治力学(単なる利権という求心力以外の政治的妥協の根拠)へのみとおしもたつ。

【2007/05/06 01:23付記】
■⑥欲をいうなら、小泉・安倍ラインのような、ネオリベ・ネオコン融合体(新自由主義もどき=新保守主義)といった、個人や小集団の演出と本質の葛藤とかもうかびあがるXY軸が提出されることをのぞみたい。■なぜなら、石原都知事にみられるように、そういったキメラ政治家が、すくなくとも大都市部では圧倒的人気をあつめているからだ。■小選挙区制度では、有権者の3分の1程度をおさえればかてるし、全国的にそういった組織網を確保できる政党は圧勝できるからだ。国民の過半数がのぞまないことでも、大同団結してしまう政治意識の層が結集すると、かなりの暴走が可能になるということ。


●「憲法ポジマップを一部修正しました。
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