■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のバックナンバーから、少々おくれ気味の転載をしようとおもっていたら改訂版がでて、しかもまた1週間ほどたってしまった(笑)。■シリーズ第49回【リンクはハラナ】。

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世界の環境ホットニュース[GEN] 636号 07年04月27日
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枯葉剤機密カルテル(第49回)         
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枯葉剤機密カルテル          原田 和明


私の当初の仮説を覆す新たな資料が見つかりましたので、前回配信しました第49
回を今回の分と差し替えたいと思います。(原田)

第49回 秘密資金

三井三池争議があった1960年は、安保条約改定をめぐって国内が騒乱状態になった年でもありました。吉田茂首相が1951年に締結した安保条約は、「片務性の条約」といわれていました。アメリカには在日米軍基地で自由に行動することが認められながら、日本を防衛する義務は明記されていなかったからです。社会党はこの点を「不平等条約」と批判し、「安保改定は国民の熱願」と主張しました。
岸信介も、「安保改定を実現することが岸内閣の使命であり、政治家として国民に対して責任を果たす所以であると確信するようになった。」と回顧録に書いています。
安保を改定して改善された最大の点は、岸元首相が頑張って、それまでの片務協定から、「米国が日本を守る」ことを義務付けた点であるということになっています。ところが、この新しい安保条約改定作業が始まってまもなく、岸信介首相の実弟・佐藤栄作(当時蔵相、後に首相)が、こともあろうか交渉相手のアメリカにカネの無心をしていたのです。岸がその成立に最も情熱を傾けた新・日米安保条約の意味とは何だったのでしょうか?

1958年から60年代にかけて、「自民党の有力政治家がアメリカ中央情報局(CIA)から多額の資金援助を受けていた。」と報じたのは 1994年10月8日付の米ニューヨークタイムズでした。(1994.10.10 朝日新聞)

朝日新聞によると、ニューヨークタイムズ紙の情報源は情報公開法に基づき公表されたCIA文書で、それによると、選挙資金援助をアメリカに持ちかけたのは岸信介首相の実弟で蔵相の佐藤栄作でした。1958年7月25日に 佐藤栄作がカーペンター駐日大使館一等書記官と「報道陣を避けるため」東京グランドホテルの佐藤事務所で会談しています。このとき、佐藤栄作は「日本共産党日教組などの脅威を指摘し、『共産主義勢力』がソ連や中国から資金援助を受けている」と説明し、「これら過激分子と戦っている政府・自民党は支持者・企業から資金を集めていて、経済界の一部指導者たちが『結成も活動も報道されていない秘密のグループ』を通じて資金提供を図っているが、衆院選挙後だけに資金不足」と窮状を訴えました。その上で「保守勢力が共産主義と戦うための資金援助の可能性」を打診したのです。佐藤が求めたのは翌59年の参院選挙用の資金でした。

アメリカ側は、佐藤からの要請を「事前に予想して」、会談前に対応策を打ち合わせていました。カーペンターは、「このような支援がアメリカから提供され、プレスが知るところとなれば、アメリカは日本の内政問題に干渉したと非難されます。」と言って断りました。(春名幹男「秘密のファイル・CIAの対日工作」共同通信社2000)

それに対し、佐藤は、川島正次郎・自民党幹事長を「窓口」にする、アメリカが困る立場にならないよう極秘に行なう、などを提案しました。(1994.10.13朝日新聞)佐藤は、アメリカの立場には配慮していますが、外国からの資金援助が公職選挙法、政治資金規正法に違反することを知らなかったはずはありません。

カーペンター書記官は、事前にマッカーサー大使マッカーサーGHQ司令官の甥にあたる)に言われた通り、「大使は常に、岸首相と保守勢力に対し、あらゆる可能な方法での支援に努めてきました。大使は日本における共産主義の影響に関しては、保守勢力と懸念を共有していますが、そのような目的での資金援助提供は可能ではない、との意見です。」と佐藤に伝えました。すると、佐藤は納得して、それ以上食い下がることはなかったとのことです。(1994.10.13朝日新聞)

佐藤の援助要請が違法であること以上にこの会談は大きな問題を孕んでいました。
会談一週間前の18日には藤山愛一郎外相がマッカーサー大使と会い、「安保改定についての日本側見解を30日に示したい」と伝えていますので、このタイミングで佐藤が「打診」(朝日新聞の表現)したのは、新しい安保条約の内容をカネで売ろうというのと同じです。そして、「打診」から一か月後の 1958年8月25日になって、岸信介首相と藤山外相が大使に会って、「条約は小幅の修正ではなく、根本的に改定したい。」と申し入れています。(1994.10.25 朝日新聞)

そして、1958年9月12日、アメリカ政府は安保条約の改定草案を決定しました。
草案は、
1)アメリカは日本を防衛する義務を負う。
2)日本は防衛に必要な施設を米軍に提供する。
3)日本での米軍の配置、持ち込む兵器、緊急時の施設使用などについては 事前に協議する。
という3つの柱からなっていました。

この時点で早くも、「双務性」を備えた新しい安保条約の骨格ができていたことになります。しかし、1)については、締結した条文には「共通の 危険に対処するよう行動する」と書かれているだけで、どこにも「日本を守る」とは書かれてはいません。アメリカが共通の危険を感じる相手から攻められない限り、日本を守る義務はないと解釈できます。つまり中国や北朝鮮が日本を攻めてきても、その時点で中国や北朝鮮がアメリカの友好国となってアメリカにとって危険を感じる国でなければ、アメリカは日本を守る義務は負わないということです。(ビル・トッテン「日本は略奪国家アメリカを棄てよ」ビジネス社2007)

3)の核兵器の持込については 密約が取り交わされていて、今でも機密扱いのままです。ライシャワー駐日大使が核持ち込みを暴露したことがありますが、日本政府は「アメリカから事前協議の申し入れがない以上、核持ち込みはないと信ずる」との態度をとり続けています。旧・安保条約の不平等条項は新・条約になっても何も変わっていないのです。

このようにアメリカに都合のよい内容になっているのは、この間に、秘密資金が「自民党の有力政治家」に渡り、その見返りとしてアメリカに都合のよいように安保条約を書き換える結果になったことを意味しているように見えます。

ニューヨークタイムズ紙の報道の後、マッカーサー元大使は朝日新聞社の取材に対し、「反共活動支援の必要があった」と指摘したものの、同元大使が資金援助を認めたことは否定しました。しかし、CIAによる援助や転任後の援助実施の可能性については、「私は知らない」と答えています。(1994.10.13 朝日新聞)

森喜朗・自民党幹事長は「昔のことで、党職員に調べさせたが、そんな事実はない。迷惑な話だ。」(1994.11.11 朝日新聞)と語り、自民党総裁で副総理兼外相・河野洋平も「メモには『アメリカとしては資金提供できない、と返事した』と書いてある」と述べ、資金提供の 事実はなかったと 強調しました。(1994.10.13朝日新聞)ところが、ニューヨークタイムズ紙の報道直後の1994年10月10日に、河野洋平外相と外務省幹部が、モンデール駐日大使と都内で会談し、アメリカ側に問題がこれ以上拡大しないよう要請していました。(1994.11.18 朝日新聞)

資金援助があったことは間違いありません。元国務省情報調査局長・ロジャー・ヒルズマンがケネディ大統領就任時にCIA側から説明を受けたと証言しています。「自民党の有力政治家」に渡った秘密資金は年間数十万ドルから二百万ドル(当時1ドル=360円)を超えない範囲と推定され、1964年に打ち切られるまで続けられたとのことです。(1994.11.11 朝日新聞)

ところで、CIAに資金援助を要請したのは、当のマッカーサー大使でした。彼は佐藤・カーペンター会談から4日後、バーソンズ国務副次官補あてに佐藤との会話メモを添付して秘密電報を送っています。(春名幹男「秘密のファイル・CIAの対日工作」共同通信社2000)

「(佐藤との会話メモは)国務省内で機密にすべきものだ。私が9月にワシントンに一時帰国する際、詳しく話す。」ニューヨークタイムズ紙が入手したのは、この会話メモでした。秘密電報は資金援助の必要性を説いたものではありませんが、単純に援助要請を断ったのであれば、「メモを国務省内で機密に」することも、わざわざ「一時帰国する際、詳しく話す」必要もありません。

CIAから外国の選挙への資金提供は次のようなシステムで決定されていました。(春名幹男「秘密のファイル・CIAの対日工作」共同通信社2000)
1)資金を提供すべきとの勧告は、その国に駐在する大使 またはCIA支局員からなされる。
2)勧告がワシントンに届くと、国務省とCIAの間で協議され、
3)ダレスCIA長官が、資金援助が必要と判断したら、
4)CIAの計画調整グループか特別グループで工作の内容を協議し、
5)当該国駐在のCIA支局が工作を実施し、
6)工作の進捗状況は毎週、計画担当CIA次官と国務次官で協議する。

マッカーサー大使が「一時帰国する際、詳しく話」した場は、このシステムの2)であったと考えられ、彼の勧告により資金援助が実施されたと考えるのが妥当でしょう。「国務省とCIAの間で協議」と言っても、このときの国務長官はジョン・フォスター・ダレスで、CIA長官は弟のアレン・ダレスです。資金提供を受ける日本側も岸信介と佐藤栄作の兄弟だったのですから、カーペンターから断られたときの佐藤のものわかりのよさのウソ臭さから言って、佐藤・カーペンター会談は、「事前に打ち合わせた」芝居だったのではないかとも思われます。あるいは芝居でなくても、資金援助要請について「表面上はお断り」はマッカーサー大使の常套手段であることを佐藤は知っていたのでしょう。

安保闘争が激しくなった1960年5月23日に 自民党幹事長・川島正次郎がマッカーサー大使に、デモに対抗して右翼や体育会系学生らを動員するために「追加的資金」を「懇願」しています。このときも大使は「この種のカネをアメリカが供給できる可能性はない」と断っておきながら、2?3週間後にはCIAから川島に資金援助が行なわれています。(春名幹男「秘密のファイル・CIAの対日工作」共同通信社 2000)このときも 大使は CIAに追加支援を提案したのでしょう。そして、「追加的資金」という以上は、それまでにももらっているということを自白しているのと同じです。

2006年夏にニューヨークタイムズ紙のスクープを裏付ける史料がアメリカ国務省から発刊されました。アメリカ国務省自身が自民党への資金援助の事実を認めたのは初めてのことです。その対日外交史料集の中に、1958年5月に アイゼンハワー政権がCIAから日本への資金提供を許可したことが記されていて、自民党有力政治家へ資金援助するとともに、穏健左派勢力を支援(年間 7.5万ドル)して社会党分断工作を行なったこと、が記されていました。民主社会党(後の民社党)が誕生する60年から64年にかけて毎年7万5000ドル程度の資金援助が行なわれていたのです。(2006.7.19 朝日新聞)1960年の社会党分裂、民社党結党がCIAの工作によることが明らかになったのです。その他、60年安保闘争では、随所で安保賛成の右翼の活動が見られました。衆院で強行採決が行なわれたときも、傍聴席は暴力団風の「応援団」で埋まった、と報じられました。彼らを動員する資金もCIAが調達したものでした。(春名幹男「秘密のファイル・CIAの対日工作」共同通信社 2000)

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■安保闘争を非武装中立といった、非現実的な一国平和主義だと、右派は軽侮する。■しかし、こと、「てつづき」問題にしぼるかぎり、自民党という政党は、反共政策をつらぬくためには、ウラで違法行為を平気でくりかえし、わるびれることがない。暴力団を活用することも辞さないし、権力維持のためには、手段をえらばず品性とか対面とかかなぐりすてる連中だということがわかる。■そして、それをしってかしらずでか、かれらを支持してきたのが日本国民の相当部分だった。この「美しくない国」の体質は、戦前の天皇制国家の負の遺産だろう。


●「トラックバック・ピープル 安倍晋三