■1年以上まえにかいた「過剰な日本語の本質化の実例1=想像の連続体としての日本語3」の続編。■「日本語」イメージに投影される「連続性」幻想とか、「想像の連続体」イデオロギーについては、いろいろかいきたが、これはなかなか ぬづよいというか、ねぶかいものをかかえているようだ。

金田一秀穂ふしぎ日本語ゼミナール』の一節〔「日本語はダジャレがお得意」pp.156-8〕から。

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 日本人のダジャレ好きは今に始まったことではありません。昔の人たちもダジャレに親しんでいたようです。
「百人一首」に「いにしへの奈良の都の八重桜けふ九重ににほひぬるかな」という歌がありますが、この「九重」は「宮中」と「ここの辺(へ)」の二つの意味を表します。これを掛詞と言いますが、つまりはダジャレです。
〔p.157〕
 ダジャレというのは、実は日本語の特徴に基づいています。
 日本語は音が少ないため、同音語がとても多くなります。「しりつ」の「私立」と「市立」、「かがく」の「科学」と「化学」といったような、まぎらわしい言葉がたくさんあります。これは実に困ることです。
 しかし、音が少なくて同音語が多いからこそダジャレができます。ダジャレができるだけじゃ大したことはないと思う人がいるかもしれませんね。音が少ないことの最大の特徴は、一音が一字に対応しているということです、「あ」なら、「あ」の音が「あ」というひらがなに対応しています。
 つまり、日本語ではひらがなさえ覚えれば、すぐに文章が作れます。小学校一年生でも、「きのうえんそくにいきました。たのしかったです」と書けるわけです。中国語や英語だと漢字やスペルを覚えなければいけませんから、こうはいきません。この一音が一字に対応していることが、日本人の識字率が高まった理由の一つだと言われています。日本の文明が発達した最大の要因は日本語の構造にあったのかもしれません。
〔p.158〕
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金田一先生、祖父金田一京助、父金田一春彦と高名な言語学者を先代・先々代にもつことは、よくしられていることだろう。■金田一京助については、何度か批判的にとりあげてきたが、ここでは、金田一先生の議論の権威性が、これら後光なしにはかんがえづらいことを、しるすにとどめておく。

■ちなみに、ことわっておくなら、本書は実によくできているとおもう。■「おっと、そうきたか…」と、虚をつかれる、死角を指摘されるといった記述が満載だからだ。■しかし、引用したような記述もないではない。つまり、高名な言語研究者の後光と、基本的にさえわたる筆致があるがゆえに、まぎれこんだ日本語イデオロギー(おそらく、ご本人自覚などないはず)は、かなり有害な作用をおよぼすとおもう。■だから、問題点を列挙・整理しておこう。

■?「九重(ここのえ)」と「ここの辺(へ)」は、オトがちがう。これがダジャレだろうか? ダジャレとは、すくなくともオトがおなじか、ほぼ同音だとみなせないとおかしいはず。■まして、「九重」と「宮中」は、単に「九重」を「キュージュー」と誤読したときに、「キューチュー」と類音になるという、単なる漢字表記のトリックにすぎない。■もちろん、「ダジャレには、単なる漢字表記上の強引な類音関係(心理学上の連合関係)も、ふくまれる」というたちばなら、それはそれでスジはとおるが、ここでの議論は、「日本語は音が少ないため、同音語がとても多くなります」という論拠の実例のはずでしょ?

■?「日本語は音が少ないため、同音語がとても多くなります」というけど、それは「日本語」というより、漢字語の同音異義語の同音衝突問題ではないのか? ■「クモ(雲・蜘蛛)」、「ハシ(橋・端・箸・嘴)」、「カキ(柿・牡蠣・垣…)」といった、いわゆる和語における同音衝突は少々あるけど、音声としてかわしたときに深刻な誤解におちいるような文脈がそれほどあるか、疑問。■深刻な誤解とは、漢字語の一部で、たとえば「遍在・偏在」とか、ごくかぎられた例なのでは?

■?音節文字としての、かながきが、日本人の識字率のたかさだとか、文明が発達した最大の要因だとか、あまりに暴論なのではないか? ■これらのことは、ヨーロッパ語であれば、スペイン語・イタリア語など、比較的正書法が単純なケースとか、おとなりの朝鮮半島のハングル・チョソングルなどと、慎重に比較しないと、こんな単純な「お国自慢」が成立するとは到底おもえない。


●「想像の連続体としての日本語」「想像の連続体としての日本語2