【概要】

■「過去情報」である「失敗」経験とかを整理しすぎると、利用しようとするものにとって、参考にならない。■「最短ルート」確立までの試行錯誤過程全部を提示するのは不親切すぎるが、「最短ルート」だけの提示は、「専門家」同士の情報交換としてだけ意味がある。■「目的地」へのガイドというのは、通常「専門家」あいてではないのであり、「目的地」にいたる複数ルートのうち、利用者のニーズにあわせて最適コースとして提示するべきだ■そうかんがえれば、「最短ルート」開発のための試行錯誤過程は全部すてさられるべきではなく、むしろ意識的にのこされ、取捨選択のうえで最利用されてしかるべきだ。■つまりは、試行錯誤過程が「失敗学」的に最大活用されるということだ。
■公教育や市民講座などふくめて、ほとんどあらゆる教育過程サービスは、「最短ルート」以外の多様なコースが用意され、「目的地」に到達することより、むしろ途上の過程をたのしむことが「目的」のばあいさえある。■いや、科学の最先端に到達すべき修行中の層さえも、先人たちの試行錯誤のぶざまさを「反面教師」という「贈り物」として、参考にしていくはずだ。
■哲学者の内田樹先生、必要最小限の記述にまでしぼりこみをせず、試行錯誤の過程を整理しきれていない論文もどきは、「贈り物の手作りケーキに添えて、材料費のレシートとちらかった台所のポラロイド写真を差し出すようなものだ」と、学生をたしなめていた〔『狼少年のパラドクス』朝日新聞社,2007年,p.193〕。
■一方、小説家の小川洋子さん、1行ぐらいに要約可能な「テーマ」なるもので代行可能なら、小説みたいな長文は不要だ。要約不可能ななにものだからこそ、モジの連鎖をながなが展開する意味があるとする〔『物語の役割』ちくまプライマリー新書,2007年,pp.64-6〕。
■必要最小限の整然とかきつらねるべき学術論文と、テキストをよむという過程自体が快楽・感動になるだろうという小説とは、まったく性格・目的がちがうだろうが、哲学者と小説家(フィクション作家)とは、単に両極の「整理」論によってたつものなのだろうか?■ハラナには、単純にそうとはおもえないんだな。


■ごく単純に、円錐形のヤマがあるとして、その山頂にたって下界をみおろすことで、たかい視座をえることが目的だとする。■この三次元的モデルをつかうことによって、学術論文は、山頂に達する最短距離のルートを発見したことを証明することが本義であり、副次的に「サーベイ論文」と称する、最短距離のルートの「入り口」へのガイド役をはたす作品がある、という風にたとえことができる。■「最短ルート」であることの保証は、学界のなかで狭義の同業者がおこなう。サーベイ論文によって「入り口」にみちびかれ、あとは「最短ルート」をのぼりきる能力をもつものだけが、「最短ルート」であることを確認できる(その「登攀力」をつちかうのが大学院)。ガイド役は一般に大学教授などであり、いくつかの「山頂への最短ルート」を実際にのぼりきる能力、ないし独力で「最短ルート」発見したことを保証されたことによって、ポストをえる。
■それに対して、小説(フィクション)は、山頂にたって下界をみおろすことで、たかい視座をえることを目的とはせず、山頂への多様なルートを模索する過程を重視する。■「文芸評論家」やら「批評家」がエラそうに「ガイド役」「100名山選定委員」などをになうかもしれないが、文学的営為の本旨は、山頂をめざす試行錯誤を各人がくりかえすことだ。あらたなルートを開発しようと、スマートとはいいかねる「さまよう」過程、ひょっとしたら二度とだれもたどれない「つづらおり」「五里霧中」をへて、山頂になんとかたどりついたという達成感。下界をみおろしたときの自己満足的な爽快感が肯定されているのだ。■いいかえれば、新ルートの開発は、表現者のみならず、読者もおこなうと。テキストをつむぎだす表現者も、それを紹介・位置づけする評論家も、それらを味読するギャラリーたちも、みんな「文学」していることになる。

■以上、両者はたしかに対極にある。■しかし、実際にかかれる多数の文章(ノンフィクション)は、日記や商品の解説文はもちろん、たとえば歴史的総括の声明文のようなもふくめて、「最短ルート」型でも「試行錯誤・五里霧中」型でもなかろう。■その理由は、たぶん単純な構造だとおもう。
■?かきて/よみての あいだには、おおきなミゾ(文脈/基礎知識)がよこたわっているの普通。
■?かきて/よみて双方が、それら おおきなミゾを充分認識したうえでの、相互理解をはかるだけの頭脳をもちあわせていないのが普通。
■?相互の認識のミゾをうめる作業は、専門家最前線の同業者同士の「発見」競争のばあいだけ、「最短ルート」ガイドが不必要になり、「最短ルート発見」の成否を証明する作業と確認する作業だけ不要となる【専門家・業界内】。
■?逆にいえば、「第一発見者」から「初級者」までの、気のとおくなるような「ミゾ」のグラデーションがあり、「ミゾの質・量」の難度・おおきさに応じて、「ガイド」過程が不可欠になるし、それは多様なサービス商品となる【広義のサービス業】。


■このように「整理」してみると、つぎのような内田先生の「指導」は、大学院などでしか有効でない「整理」のすすめだとおもう。

 論文の目的は、ふもとから頂上まで上がり、「そこからはこんなものが見えました」というレポートを行うことなのであるから、最短距離で登って見せるのが、「読者へのサービス」である。
 律儀に自分の足跡通りに進む必要はない。この「書き換え」作業の必要性が学生院生諸君にはまだなかなかご理解頂けていないようである。
 ……まるで何の苦労もなく、すらすらと「頂上まで来ました」というふうに、書き換えてあげないといけないの。
 苦労したのは君一人の事情であって、その苦労を追体験する義理は誰にもないんだから。
 ……論文というのは「贈り物」である。私たちが先人たちから受け取った「贈り物」を次の世代にパスするものである。
〔前掲書pp.190-1〕

■最初にのぼりきった本人が苦闘したあとを、あたかもなかったかのように「最短ルート」にまとめてしまえば、それにラクラク対応できるベテラン登山者には最適の「ガイド=贈り物」だが、それ以外の登山者には、なにがなんだか、わからない登山ガイドと化す。■ドロだけらの最初の試行錯誤過程をそのままさしだすのは、たしかにカンちがいの自己満足であり、不親切きわまりない。■しかし、自分以上のベテランむけの「ルートガイド」でないかぎり、「最短ルート」の提示は、非常に不親切である。ベテラン以外の登山をあきらめさせるような最悪のね。
■つまり、シェルパ族のようなエリート登山隊サービスでない以上、サービス業者として「登山ガイド」は、何度も山頂ルートの複数の選択肢を再確認して、登山者のレベルにあわせた、適当なルートの提示がもとめられるのだ。■ばあいによっては、登山者のレベルに応じた「(とりうる現実的)最短ルート」ではなくて、「あそび」「休憩」が意識的にくみこまれたルートである必要がかんがえられる。■だって、ハイキングの延長線上のトレッキングとか、そうでしょ。「そこ(頂上)からはこんなものが見えました」なんてことの報告が第一義とはかぎらないように、登山者にとっては、頂上への過程がたのしみなのだし、途上の木々花々や滝のしぶきのうつくしさ、トリのさえずりなどが、登山の醍醐味なんじゃないのかね?
■「最短ルート」を追体験できる興奮、「山頂」にたったときのみはらしによって、つぎの目標となる「山頂」とか、そこへのルートがあきらかにされる予感のゾクゾク感は否定しない。■しかし、論文のなかに無味乾燥なものと、読後感がさわやかだとか、よみすすめるときに幸福感につつまれるとか、小説っぽい解読過程って無視できないとおもう。


■もともと、内田先生が『身体(からだ)の言い分』(毎日新聞社, 2005年)あたりでカラダにわるい(というか、心身のためにならない)とおっしゃる「整理」「反省」ってのは、過去の失敗をふりかえらないってことではない。内田先生ご自身がおみとめのとおり、過去の失敗は、ちゃんと失敗学的に充分検討対象=試行錯誤の素材として有効利用されているんだね。■つまり、内田先生、「反省なんかしない」っていいつつ、ちゃんとおやりになっている(笑)。■要は、「まえむきな検討につながらない後悔はしない」といっているにひとしいとおもう。その意味では、「反省不要」論は、読者を誤解させる、非常にこまった主張ではないか?■「失敗学」的に まえむきに検討されるべき素材としての、過去の失敗体験・試行錯誤過程ってのは、ちゃんと「反省」されるべきだ。
■一方、専門家同士のチェックとか、大学院の指導とか、よみての方が超越的に基礎知識をたくえわえているばあいはともかく、一般の読者むけにガイド(「贈り物」)をするばあい、それは「最短ルート」まで選択肢をしぼりこんでしまって、それ以外がなにもないような整理は有害だ。■読者の能力・指向に応じて、適切な難度までルートの改変が必要だし、通常は複数用意するか、初心者むけをむしろ提示しておく方が汎用性がたかい。■そのばあいは、登山道の整備などもふくめて、それまでの失敗・試行錯誤を最大限に利用して、意識的にムダがくみこまれているべきだ。■先人からの「贈り物」として登山のたのしみをつたえるガイドは、ベテラン以外の参加者がムリなくたのしめるように、過去の失敗・試行錯誤過程である「ルート」をあるくよう、計画するだろう。■で、実際、大学院以外の教育過程とか、カルチャーセンターの講座なんてのは、みんなそうなっているはずだ。いや、科学教育だって、科学の基礎原理から最先端までの「最短ルート」の提示というより、先人たちの試行錯誤過程をまなばせることが最初の修行段階だろうし、その後だって、業界のライバルたちの試行錯誤過程を参考に、いつかだしぬこうって、がんばるんだよね。


■ところで、
続きを読む... ないしこの記事のURLといった箇所をクリックしないかぎり、日記の「正面玄関」からはよめないこの「追記」部分。■では、その操作をはぶいて、つまり【概要】以外をよまずに すぐさま内容をほぼ把握できた読者がいるのだろうか?
■「最短ルート」だけをさししめす行為とは、そういったもののような気がする。それは「1をきいて10をしる」ような、要は試行錯誤過程をいまさら追体験するような必要のないぐらいの水準に達してしまっているベテラン(概要=最短距離案だけしめされれば、それが最短距離かどうかを判定し「指導」「修正」が可能なひと)ということ。