■毎日こうしてかいている。しかも、通常の「ブログ」と称されるウェブ日記にしては、質・量とも異例な部類にはいるだろう。■おそらく、つたない文章力・編集力にそぐわない、アクセス数をかぞえているとしたら、おもには、単純な情報量のおおさが、過分な評価をもたらしているのだろう。
■それは、うれしいことではあるが、少々負担でもある(笑)。■たとえば、現在新幹線車内から更新をこころみているが、きわめて劣悪な通信環境であり、編集作業自体が実に困難である。しかし、「毎日更新される」とか「毎日複数の情報があがる」といった期待にこたえようという「義務感」というほかない「倫理」があることは、否定できない(笑)。■いや、それこそ、このつたない日記の活力源であり、ハラナ個人の単なる気やすい趣味とはいいかねる「おつとめ」として、毎日のハリになっているのである。ではあるものの、お坊さんの勤行のように、キツい状況が ときどきではあるが、おとずれる
〔コメント欄とかトラックバックなどによる更新は、ここでは 勘定にいれていない。外部からのものも、運営者自身によるものも〕
■「能力・状況をこえて ムリする方が、おかしい」というのは、もちろん正論である。だれにも拘束・強制されず、個人の完全な主体的意思によって運営・更新されている個人的日記に、義務など生じようがない(笑)。■だが、あったこともない読者の存在が、こうしてハラナという個人をつきうごかしてしまうのだ。■これも、心理学的な事実だ。それを、単なる耽溺〔タンデキ〕とか、依存症とか、いろいろな解釈は可能だろうが、ともかく、「少数とはいえ、確実にいるだろうギャラリーにわるいな」とか「毎日維持している水準を急におとすのは かっこわるいな」とか、「依存症的とはいえ、継続はちからなりだ」とか、いろいろと、ハラナという個人をつきうごかす「理由」がうかんでくる。■それは、たぶん妄想ではなく、かなりの程度 現実的根拠がある。
■たとえば、ギャラリーが毎日数百人規模でいることは、アクセス数をひかえめにみつもっても確実だ。■別の日記の質・量が、こちらといちじるしくことなって、おちるとおり、義務感・切迫感のない更新には、緊張感がもたらす 質・量が決定的に欠落する。■「しめきりがあるから、しあがる」という経験則がここにもあてはまる。「日々更新」という、勤行のようなリズムが、不思議と文章を誕生させるのである。これはこれで、すごいことである。二年間も毎日更新し、いずれ2000をこえる記事をかくだろうという量的な次元だけとっても、すくなくとも ハラナの半生で、かつて一度もない「生産力」なのだから。

■宮本武蔵は、「練磨」という修行の蓄積を、千回・一万回とのべたそうだが、しろうとめには、「それだけ継続的努力ができるだけ、異常な能力だろうよ」と、皮肉をいいたくなる。■しかし、「継続はちからなり」で、「毎日あたらしい記事をかく」と、勤行のように日常化してしまえば、なんとか時間がつくれ、また一定の集中力がうまれるんだね。不思議なことに。■自分でもびっくりするが、「毎日あたらしい記事をかく」という水準から、「毎日なるべく複数記事をあらたにかく」という方針にきりかえて以来、月間で50件をわりこんだことが一度もないのだ。これ自体、おどろくべきことだとおもう。■小学生のときの日記はもちろん、学生時代に何度かこころみた日録のたぐいが一度も長期間つづかかなったのに、このウェブログだけは、何百日もかかさずつづいているのだから。■もちろん、これで、武蔵のいう1万水準までとどくという保証などないけど、かきはじめたころには信じられなかった水準で、1000日≒2年9か月という蓄積が、みえてきた。

■そして、みのがせないのは、一定水準の文章をかきあげるのが、さほど苦痛でなくなっているという現実だ。ウェブ上からの引用のてぎわもふくめて、あきらかに作業能率があがっている。■これは、かぎられた時間わくで、ともかく 意味ある新規記事をまとめるっていう「しめきり」意識の産物だ。

■ということで、きょうの更新も少々キツかったが、チョイがんばって かいてよかった
〔かんがえが、少々整理された〕と、一定の自己満足に達することできたのだった。■「アリバイ的更新」でも、無意味ではないと。