ゴンベイさんがはりつけた文章を一部転載して、まくらとする。

時間: 2007年7月07日(土) 20:56 題名: 民は信なくば立たず

-------------------------------------

「言」:【会意】「辛」と「口」とから構成されている。「辛」は入墨に用いる針の形で、盟誓のときには自己そ盟を行い、違約の時には入墨の刑罰を受けることを示す。「口」とは消化器官の入り口という意味のものではなく、甲骨文字では「U」の字の中に横線を引いた形で、盟誓の書を入れる器の形。その盟誓の書を載書というので「サイ」の音で読む。「言」はその器の上に針を置き、神に盟誓することばをいう。

「信」:【会意】「人」と「言」とから構成されている。言は誓言。神に誓うことばである。「誠なり」という。「言にして信ならざれば、何を以ってか言と為さん」というように、もとは盟誓の言をいう。信を強調することは「論語」に至ってみえ、「論語、顔淵」に政の大本は、食と兵を充足し、民を信ぜしめることの三者にあるが、もしやむをえずその政策を放棄するときは、まず兵を去り、次に食を去るも、信は政治の絶対条件であるとする孔子の語がみえる。大ていの政治は、これを倒逆した形で行なわれている。

(字統 白川静/著、平凡社)

-------------------------------------------
■これらにくわえて、「民」という漢字の「会意」をそえることもできるだろう〔「目に針を刺す」〕。■しかし、再三くりかえしてきたとおり、「語源」等をいくら起源までさかのぼってあきらかにしたところで、現代の具体的文脈における用法=現実を説明することには、まったくといっていいほど 無用なのである。■少々、精神的にゆたかになった気分によえるという効用をのぞいては…。
■たとえば、白川静による、「言」という漢字の「会意」の「「言」はその器の上に針を置き、神に盟誓することばをいう」という記述が、現在の「言」という表記をよりよく理解するために やくだつか? あるいは、現状の用法を体系的に理解するための一助となるか? おそらくならない。
■また、先天性の全盲者であれば、「言」という字形をたしかめる経験はほとんどないだろうから、どうでもいいことだろう。■「言」という漢字表記がどんな経緯でうまれたかとは無関係に、「言語」という漢字語の冒頭で「ゲン」と発音するとか、ときに「言語道断」のばあいは「ゴンゴ」と通常死語した「よみ」が復活するとか、ディジタルデータを音声化するときに、ソフトや利用者が知識をもっていると、カラクリがわかるとか、そういった構造のなかで、「言」という漢字の字形とかその起源問題は、まったく介在しない。
■その意味では、漢字の3要素としてあげられてきた、「形・音・義」という整理は、実はまちがっている。「字形」は、「音・義」という、ソシュールが指摘した「能記(シニフィアン)」と「所記(シニフィエ)」の結合=連合関係を、特定(差異化)し記録化するための、インデックス(指標)でしかない。■その証拠に、モジをもちいない空間では、漢字語が「字形」ぬきでかわされているし(たとえば、日常会話や演劇)、そこで「字形」をテロップのようにもちだす必要もない。■実際、ディジタル情報として記録・複製される漢字語や字形情報は、画面や印字として確認されないかぎりは、0/1 記号に「翻訳」されてしまっているのであって、「字形」が、本質的ではないことを、一層うきぼりにしている。
■もちろん、ろう者のように、「形・義」という連合関係しか基本的にないケースは、みのがせないが、それは漢字語が不可欠にそなえねばならない本質ではない。


■このことは、なにも「かきことば」にかぎられた構造ではない。■「はなしことば」のばあいでも、おなじである。いや、「はなしことば」のばあいは、「音・義」という二項しかないために、その連合関係の双方の変動が時間的にかならずくわわる。■「音」は外部からの流行などによって物理音エネルギーの分布の「新型」がくわわり複数のパターンが共存・対立・競争をくりかえすだろう。■「義」は実際の用法が蓄積されることによって、指示内容が微妙にズレたり、隠喩やコトバあそびなどによって、多元的な連合関係が誕生することをとめられないだろう。■エウジェニオ・コセリウという言語学者の主著のなかに、『うつりゆくこそことばなれ : サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア』(日本語訳表題)がふくまれているのは、ソシュール的な意味で、時間を凍結した言語体系といった擬制が、意味をなさないだろうという、痛烈な批判といえる。


■ひるがえって、うえにあげたような議論は、なにも言語現象という領域にとどまるわけではない。「起源論」は、おおくのばあい本質的に不毛なのである。■たとえば、現在の天皇制を、古代王権とのからみで説明しつくすことは不可能だ。天皇家に対するタブーであるとか、そういった事象を解明するために、その起源をしることは有益だろうが、現代天皇制の本質をあきらかにするためには、キリスト教の一神教の衝撃という、明治維新政府にとっての重要課題を整理した方がずっと本質的に議論がすすむだろう。ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」のむすびめとして、印刷化された「国語」と「御真影」は、不可欠だっただろうし、それによって定着した「日本」という幻影は、不動の連続体という神話をもたらしただろうと〔「想像の連続体」〕。■歴史家のなかには、起源論的に天皇制をあとづければ、それで現代天皇制まできれいに解明できると誤解している層が多数みうけられるが、ナンセンスだ。

■ましてや、男性性/女性性のエセ生物学・動物行動学を乱暴に援用した本質主義的議論などは、ナンセンスのきわみだ。■デズモンド・モリスなどの議論は、一部有益ではあっても、ああいった生物学的な起源論で、人間行動の男女差などがきれいに説明しきれるといった読者が大量にうみだされているとしたら、有害無益とさえいえそうだ。■よきにつけあしきにつけ、ヒト、とりわけ現代人は、地理的・歴史的にめまいがするぐらい多様な諸文化に規定されているのであって、食欲/睡眠欲/性欲といった基本的欲求さえも、動物行動学的な決定論でわりきることは不可能である。


■まとめよう。■「起源論」は、始原的状況が現在までしぶとくのこっているという信仰の産物である。■それは、時間軸における時系列的継承という物理的反復という意味では、一見ただしいようにみえる。しかし、可視光線プリズムなどで分光したばあいにうまれる連続スペクトルを構成する調連続体は、ちょっとはなれれば、全然別の色彩として差異がはっきりするように、おおきくはなれた連続体の両端を「同一物」とか「産物」として把握するのは無意味なのだ。■その意味では「日本語の起源」とか「日本人の起源」とかいった起源論が、いくら学問めいてみえても、生産性のないものであり、すくなくとも、現代日本人の日常には、なんら益するものでないことだけは、確実だろう。
4c6d0e05.png



●日記内「ソシュール」関連記事
●日記内「動物行動学」関連記事