■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』のシリーズ第52回【リンクはハラナ】。だいぶまえの記事。
■ただし、第53回配信での補足箇所を補筆してある。


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世界の環境ホットニュース[GEN] 639号 07年06月15日
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枯葉剤機密カルテル(第52回)         
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枯葉剤機密カルテル         原田 和明

第52回 ケネディの時代

60年の安保闘争岸信介内閣が倒れると、政敵であった池田勇人が次の首相に就任しました。そして、「所得倍増計画」がスタートしたのですが、アメリカでも共和党・アイゼンハワー大統領の後継にはニクソン副大統領ではなく、民主党のJ・F・ケネディが新大統領に選出されました。ケネディはキューバ危機を乗り切った頃から、デタント(緊張緩和)外交をすすめるようになり、戦争は回避される方向に動き始めたのです。戦争経済に依存しない道が模索された時期となりました。

ベトナム政策についてケネディ政権のもとで和平の可能性が示されました。ケネディは就任早々のキューバ侵攻作戦の失敗(ピッグス湾事件)で傷ついた政権のイメージを回復すべく、当初は強硬な姿勢を示しますが、1962年になって、国防総省から地上軍の投入を強く進言されるようになるあたりから、態度に変化が表れます。
62年5月9日の記者会見で、ケネディは「アメリカ軍の投入は危険を伴う。我々としては平和的な話し合いによる解決ができないものか努力してみたい。」と戦争によらない解決への希望を打ち出しているのです。そして、8月にはケネディの意を受けた統合参謀本部が太平洋地域司令官に、アメリカ軍兵士の段階的撤退を立案するよう指示しています。

その後も軍部から地上軍投入による「軍事的解決」を求める声は続きましたが、ケネディは意図的に(事実に反して)南ベトナムで政府軍が有利との楽観的見方を世界に向けて放送し、これを口実にアメリカ兵の順次引き上げに着手しようとしていました。1963年10月には「年内に南ベトナムから軍事顧問団1000人を引き上げる」と発表。11月に南ベトナムでクーデターが起きると、マクナマラ 国防長官が「年内の1000人に加えて、1965年までに軍事顧問団を完全撤退する」と発表しました。(Wikipedia)ケネディの手によってベトナム戦争も収束に向かっていたのです。

ケネディの政策は「枯葉作戦」にも影響を及ぼしていると見られます。1963年3月9日、アメリカ国防総省報道官は、前年1962年からベトナム戦争で「枯葉作戦」を展開していることを公表しました。新聞報道で隠し切れなくなったからです。そして、散布している化学薬品は24D245Tであること、その目的はマラリア蚊ヒルの駆除を含め、大部分はベトコンの隠れ家であるジャングルを枯らすことであることを認めました。これに対し、南ベトナム解放戦線側は、24Dと245Tだけでなく、砒素系を含む多種多様な化学薬品が大量に投下されていると発表しています。

ところで、この前年1962年に出版されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」には次の一節があります。

除草剤は植物だけに害を与えて動物とは何の関係もない・・・このような伝説ができあがっているが、残念ながら事実はそうではない。除草剤といわれるものには、いろいろな種類の化学薬品があって、植物と同じように動物の組織にも影響を与える。ほかの薬品と結合しながら悪性の腫瘍を発生させるかと思えば、また遺伝子の突然変異を引き起こして遺伝関係に深刻な影響を与える。

「沈黙の春」はアメリカで大評判になり、ケネディ大統領はさっそく政府内に薬害調査のための特別委員会をつくりました。世界で初めて政府の手によって、農薬が人間や動物にどんな悪影響を及ぼすかについて広範に調査されることになったのです。そして、アメリカ国防総省が「枯葉作戦」を認めた二か月後1963年5月にケネディ大統領の名前で発表された、ウィズナー報告は次のように述べています。(和気 朗「生物化学兵器」中公新書1966)

「沈黙の春」が出版されるまでは、世間の人々が除草剤、殺虫剤、殺菌剤などの薬剤の毒性にほとんど気づかなかったことは明らかである。政府はこの知識を社会に知らせ、一方でその価値を認識させるとともに、その危険性について注意させるようにしなければならない。

ウィズナー報告が出された頃、枯葉剤メーカーであるダウ・ケミカル社では原料転換に伴う大規模なダイオキシン被災事故が発生しています。(第26回・GEN611号)ケネディ大統領は、「枯葉作戦」について 化学兵器の側面をもつことに気付いていたかどうかは不明ですが、大事故発生の後、同社が2年の歳月と500万ドルの費用をかけてダイオキシンの発生を抑える製造プロセスに改良したのも、このウィズナー報告を意識しての意思決定だと思われます。

その証拠に、1965年3月に ダウ・ケミカル本社で行なわれた秘密会議でダウの研究者が「245T中のダイオキシン低減の必要性」を説いた動機について、会議の出席者は「ダウは、特に農薬製造に関する議会による調査と過度の法規制を恐れている。」とのメモを残しています。(第26回・GEN611号)しかしながら、ダウ・ケミカル社がウィズナー報告の精神に反して、枯葉剤散布後にナパーム弾で焼き払い、ダイオキシンを大量発生させるというアイデアにつなげていったことは、第27回「ピンクの 薔薇プロジェクト」GEN612号)で紹介したとおりです。

ベトナムからの撤退を目指すケネディにとって最大の問題は、ソ連、中国との対決以外は一切を「軟弱外交」と決め付けて非難する野党・共和党の保守派を中心に、活躍の場を奪われるCIA、軍、市場を失う軍需産業など一部の声の大きい反対派をどうかわすかでした。

そこで、ケネディは1964年11月の大統領選に圧勝して、国民の信任に応える形で、65年末までにベトナムのアメリカ軍を完全撤退させ、事実上、ベトナムの内戦から手を引くという戦略を立てていました。内心では「アメリカが支援するジェム政権を南ベトナム国民が支持せず、ベトコン側が勝利した場合でも、アメリカ政府はそれを受入れ、話し合いをすればいい。」と考えていたのです。(仲晃「ケネディはなぜ暗殺されたか」NHKブックス1995)

ケネディは最も心を許した側近の一人、ケネス・オドンネル大統領補佐官に次のように語っていました。

1965年には、この私はベトナムから撤退したとして、アメリカ史上もっとも不人気な大統領になっていることだろうね。共産主義に妥協した人物だということで、どこへいっても非難されるだろう。でも構わないよ。私がたった今、ベトナムから全面的に手を引こうとすれば、マッカーシーの『赤狩り騒ぎ』が再燃するだろうが、再選された後なら実行することができる。だから、私が間違いなく大統領に再選されるようにすることが一番大切なんだ。」(仲晃「ケネディはなぜ暗殺されたか」NHKブックス1995)

ベトナム戦争からの撤退は軍需産業にとって大問題でしたが、ケネディの二期目のプランはそれだけではありません。国民の圧倒的支持の下でCIAの解体を目論んでいたのです。ケネディは政権発足間もない61年4月に起きたキューバ侵攻作戦の大失態を忘れてはいませんでした。彼の心の中は、お粗末極まりない作戦を進言、立案し、新政権の発足を泥まみれにしたCIA首脳陣への怒りで煮えたぎっていました。

ケネディの怒りの激しさは、作戦失敗の直後、「CIAを八つ裂きにしてやりたい。」と側近に語ったことに表れています。弟のロバート・ケネディ司法長官も「この失敗はCIAの国家反逆罪に等しい。」と断罪しています。そして、大統領はCIAを徹底的に改組(解体)することを決意したのです。アイゼンハワー政権の下で急成長したCIAが一転、解体の危機に直面したのです。

すでに、作戦の責任者であるダレス長官はじめ3人のCIA幹部を更迭した後、ケネディはキューバに関するCIAの不法行為を調査する委員会を設立。さらに暫定措置として、CIAにピストルより破壊力のある武器を要する工作活動を禁止したのです。

その上で過去のCIAの作戦が調査されることになっていました。ケネディの再選は確実視されていましたので、CIAの解体を目論む大統領の下で過去の不法行為が調査されれば、CIAの命運は明らかでした。幹部の中には裁判にかけられるものもでたでしょう。秘密工作を担うCIAは「軍産複合体」の頂点に位置するものでしたから、CIAの存亡はアメリカ軍需産業とそれに連なる政界、官界にも多大な影響を及ぼすことになるのです。

ところが、ケネディ兄弟がCIA首脳陣の無為無策振りを裏切りと感じたのと同じように、CIAの現場と亡命キューバ人グループは本土侵攻作戦に手を貸さず、むざむざと仲間を見殺しにし、「キューバ解放」の機会を放棄したケネディ大統領こそ「裏切り者・戦犯」とみなしていました。

ケネディ兄弟に対する恨みはマフィアも同様です。アイゼンハワー時代にニクソンがキューバのカストロ首相暗殺計画をマフィアに実行させようとしていました。作戦は すべて失敗に 終わりましたが、マフィアには アメリカ政府に協力した、「貸し」をつくったという自負がありました。そこへ、政権交代が起こり、ケネディ兄弟がマフィア撲滅を推進したのですから、マフィアのボスたちにはケネディ兄弟は「恩知らずの裏切り者」と映ったのも当然でした。彼らは「マフィア流の復讐」を口にするようになったのです。しかし、CIAがマフィアに「借り」があることをロバート・ケネディ司法長官は当初知りませんでした。彼が知ったのは1962年初めの頃で、その事実を知ったロバートの怒りは凄まじく、CIAの顧問弁護士は震えあがったと伝えられています。

さらには、この頃、ロバート・ケネディ司法長官の机の上には、ジョンソン副大統領の「マフィア・コネクション」の調査報告書がのっていました。ロバートはジョンソンの側近の脱税及び詐欺事件の立件を精力的に進めていたのです。マフィア一掃作戦の中で、民主党内の政敵、ジョンソン副大統領にも捜査の手がのびようとしていました。1963年11月19日、ケネディ大統領は翌年の大統領選挙での副大統領候補について、「リンドン(ジョンソン)にはならないよ。」と側近に語っています。

1960年の大統領選でライバルだった共和党のニクソンは1963年11月20日からペプシコーラ社の取締役会に出席するとの名目でテキサス州ダラスに滞在、ケネディが到着する2時間前にダラスを離れています。しかし、ペプシ社の社史には1963年にダラスで取締役会が開かれたという記録はありません。ところが、ペプシ社の大株主たちがなぜかこのときダラスに集結していたのは事実です。そして、大株主の一人、マイヤーズは11月21日の夜、ジャック・ルービーと会っていたのです。ルービーは「事件」の容疑者・オズワルドを24日に射殺した男です。

ルービーはニクソンとも顔見知りでした。1947年に、シカゴにいたルービーは、しばしばニクソン下院議員(当時)のワシントン事務所を訪問し、年末にはダラスに移住したことをFBIがつかんでいました。ニクソンもまたマフィアと深いつながりがありました。1960年、1968年の大統領選でともにマフィアから多額の選挙資金を得ており、1969年1月、大統領になると早速、「義理」を果たすべく、投獄されていたマフィアのボスたちの減刑を実現させています。ケネディ兄弟が執念を燃やした「マフィア狩り」はニクソンの手によって白紙に戻されています。(仲晃「ケネディはなぜ暗殺されたか」NHKブックス1995)

こうして、ケネディは1963年11月、なんとしてでも彼の再選を阻止したい勢力が張りめぐらせた包囲網の中、テキサス州ダラスに降り立ったのです。

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■マフィアが登場するだけですごいのに、ペプシですか?(笑) ■アメリカは、日本のような小国とちがって、利権のケタがちがうから、それはそれは、すごいマグマがうずまいているんだろう。
■ケネディ大統領ってのも、清新なイメージとちがって、トンデモな部分を相当もっていたようだが、現実主義者ではあった。しかし、そんな現実主義も、ウラ社会の利権のまえには、単なる障害ってことなんだね。
■自民党や官僚たちが、ひたすら面従腹背ないし「ポチ」に徹するのは、「友好的なグッドアメリカン」が、水面上にあらわれたごくごく一部にすぎず、水面下にかくれた巨体は、みるもおぞましい怪物だという現実をかいまみてしまって、ちぢみあがっているからなのかもね。■ああ、おそろし。こういった連中からカネをかりて、選挙戦にかとうなんてかんがえる人士は、ヤクザと同質のハラがすわってないとできないだろう。■毎晩、寝汗をかかねばならないような政治的腹芸の現役時代は、さぞや充実していたことだろうよ。