■別処珠樹さんの『世界の環境ホット!ニュース』の、これまただいぶまえの記事。■シリーズ第53回【リンクはハラナ】。

【シリーズ記事】「転載:枯葉剤機密カルテル1」「」「」「」「」「」「」「」「」「10」「11」「12」「13」「14」「15」「16-7」「18」「19」「20」「21」「22」「23」「24」「25」「26」「27」「28」「29」「30」「31」「32」「33」「34」「35」「36」「37」「38」「39」「40」「41」「42」「43」「44」「45」「46」「47」「48」「49」「50」「51」「52



■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界の環境ホットニュース[GEN] 640号 07年06月20日
【転載歓迎】意見・投稿 → ende23@gmail.com   
枯葉剤機密カルテル(第53回)         
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■

枯葉剤機密カルテル         原田 和明

第53回 大統領暗殺

20世紀の「パンドラの箱」は、これ以上ない強烈なやり方でこじ開けられました。
1963年 11月22日の 昼下がり、アメリカ南部の大都市ダラスでパレード中、J.F.ケネディ大統領は暗殺者の凶弾に倒れたのです。この日を境に、アメリカ政府のベトナム政策は ほぼ180度転換しました。犯人と目されたオズワルドは24日にはルービーに射殺され、ケネディ暗殺事件は多くの謎を残したままなのです。

新大統領には副大統領だったジョンソンが昇格しました。ジョンソンはケネディの盟友などではなく、むしろ民主党内でのライバルでした。ケネディが、多彩な女性関係の情報をネタに脅迫されてジョンソンを副大統領にしたという説があるくらいです。(仲晃「ケネディはなぜ暗殺されたか」NHKブックス1995)彼はケネディが健在ならば、投獄の危険さえあったのですから、暗殺により最も得をした人物のひとりです。彼はさっそく、ケネディのベトナム政策を内心不満に思っていたことを暴露しています。

「この私は、東南アジア諸国が、中国と同じ共産主義の道を行くのを見るアメリカ合衆国大統領にはなりたくない。」
故ケネディ大統領の国葬(1963.11.25)が行なわれた翌日、ジョンソンはケネデ
ィのベトナム政策を逆転させる歴史的な文書に署名しています。

「解放戦線と闘う南ベトナムの国民と政府が勝利するよう援助するのが、引き続き南ベトナムでのアメリカの中心目標である。」


同日、ジョンソンは私邸を訪れた盟友・ハンフリー民主党院内総務(1965年からジョンソンの副大統領)にこう語ったといいます。

ジェムを殺すのに、われわれ(アメリカ政府?)は一役買った。同じこと(ケネディ暗殺?)が今ここで起きているというわけだ。」(仲晃「ケネディはなぜ暗殺されたか」NHKブックス1995)

ジェムとは南ベトナム大統領で、ケネディ暗殺の直前、ケネディの同意の下、CIAが支援したクーデターで殺害されたゴ・ディン・ジェムのことです。

そして、ケネディが発表した「千人の米兵撤収」は国防総省の帳簿の上だけの操作に終わり、在ベトナム米軍兵力は全く減少しませんでした。キューバ、ラオスに次いでベトナムからも離脱をはかるケネディ大統領の存在を容認できなくなった勢力が大統領を抹殺し、タカ派の副大統領ジョンソンを後任に引き上げる作戦を強行したのならば、作戦は期待通りに推移したことになります。ただし、ベトナム戦争でアメリカの財力は蕩尽し、アメリカの国際的名声は地に落ちたのですが。

ジョンソン大統領は、さっそく1964年3月に、「北ベトナムに 新たな重要な圧力をかける」計画を承認。そして8月、ついに米駆逐艦が 北ベトナム魚雷艇に攻撃された(トンキン湾事件)ことを口実に北ベトナムへの大規模な軍事行動を開始したのです。しかし、1971年に政府の秘密文書が流出し、この事件がアメリカ軍の自作自演だったことが判明しています。

ニューオリンズの元地方検事・ジム・ジャリソンが書いた「暗殺犯を追って ケネディ暗殺事件の調査と告発」(邦訳は「JFK ケネディ暗殺犯を追え」早川書房1992)は、オリバー・ストーン監督が映画「JFK」を製作する動機となった本です。この中でジャリソンはケネディ暗殺について次のように書いています。

1963年11月22日に、ダラスのディーリー広場で起きたのはクーデターだったと私は信じている。これをずっと前から扇動し、計画したのは、アメリカの情報組織の中にいる狂信的な反共主義者たちだったと私は考える。そして、このクーデター計画を、たぶん上からの承認なしに実行に移したのは、CIAの秘密工作に関係する個人たちと、政府の外にいる協力者たちであり、隠蔽工作に手を貸したのはFBI、大統領警護隊、ダラス警察、それに軍部の同じような思想をもつ人たちだった。暗殺の目的は、ソ連やキューバとの緊張緩和を求め、冷戦に終止符を打とうとしていたケネディ大統領の努力を阻止することにあった。」

もちろん、ケネディ暗殺事件に関しては様々な説があり、これが真相というわけではありません。政府の調査報告書で肯定されたこともありません。しかしながら、暗殺された瞬間はテレビ中継されていて、狙撃されたケネディの脳が後ろに飛び散っている映像証拠と、後方から撃たれたとする政府側の調査報告書(ウォーレン委員会)とには決定的な矛盾があり、「大統領の暗殺」に政府内部あるいは軍産複合体の巨大な陰謀が指摘される理由になっています。ケネディのCIA解体や、急進的なベトナム戦争撤退の方針が軍産複合体の利害と対立して、ケネディ暗殺につながったという説はそれなりに説得力があると考えます。

これに対し、1974年に設置されたロックフェラー委員会では、「ケネディ暗殺」についてCIAのスタージスとハントを容疑者とみなしましたが証拠不十分で立件されませんでした

さらに、1976年に設置されたアメリカ下院特別委員会(HSCA)でも「暗殺にはある種の陰謀があったと思われる」との結論を出していますが、「外国政府あるいはCIAなどアメリカの政府機関が関与した証拠はない。」との間接的理由でCIAの関与を認めるまでには至っていません

動機は様々かもしれませんが、ベトナム戦争を拡大したい勢力が存在したこと、そして彼らにとって、ケネディは邪魔な存在だったことは間違いないでしょう。ケネディの前任者・アイゼンハワーは、そのような戦争を起こしたい勢力を「軍産複合体」と呼びました。そして、彼は1961年1月の大統領離任演説で、後のケネディ暗殺を予言するかのように「軍産複合体の脅威」を唱えています

20世紀に入って60年の間に 大きな戦争が4つ起きました。アメリカはそのうち3つに関わり恒常的かつ大規模な軍需産業を作り出してきました。現在、国防に携わる人の数は 350万人にのぼります。その経済的、政治的、さらには精神的な影響はあらゆる都市や政府官庁で感じることができます。

軍備の発達は必要不可欠であると同時に、大きな危険を孕んでいることを忘れてはなりません。巨大な軍部と軍需産業との結合はアメリカが初めて経験するものです。『軍産複合体』が政府機関の中で不当な影響力を持たないよう警戒する必要があります。権力が災いをもたらす可能性は現在もあるし、この先も存続し続けるのです。自由と民主主義を危険にさらしてはなりません。

そういう状況に慣れてしまったり、軽視することがあってはならないのです。見識をもち、油断なく警戒を続ける市民社会だけが、産業界と軍が結合した途方もなく大きな防衛組織を暴走させることなく平和目的に導いていくことができるのです。
」(NHK「なぜアメリカは戦うのか? 巨大化する軍産複合体」)

しかし、彼の警告は注目されませんでした。アメリカでは国防総省とCIAを頂点とする「軍産 複合体」の影響力が 増大した結果、アメリカ政府は1946年から1967年の間に9040億ドル、予算総額の57.3%を「軍事費」に使い、教育、保健、福祉、住宅といった「社会費用」にはわずか960億ドル、同6.1%を充てただけでした。この巨額な軍事支出を中心として、アメリカでは国防総省、CIA、政界、産業界、学界、労働界などの間に緊密な軍国主義的組織が形成されていきました。(S.レンズ「軍産複合体制」岩波新書1971)

ケネディ暗殺によってアメリカは軍産複合体が支配する国となったのです。その頃、日本では池田勇人内閣の下ですすめられていた「所得倍増計画」も行き詰まりをみせていました。1965年3月に山陽特殊鋼が倒産し、5月には山一證券も経営破たんの危機を迎えるなど、日本経済は戦後最悪の昭和40年不況に陥っていたのです。さらに、都市では公害汚染、地方では農業の衰退と、高度成長の矛盾も表面化していました。

それらの矛盾を吹き飛ばしたのがベトナム戦争のエスカレーションです。ベトナムの米軍兵力は 1963年夏の1万2000人でしたが、ケネディ暗殺後の64年10月には倍増、65年5月にはさらに倍以上の5万4000人と急増しています。これに比例して戦争特需への期待も膨らみました。65年3月に アメリカ軍はダナンに上陸、本格的な地上戦に突入しています。横浜市中区の三菱ビルにあった在日米軍調達本部が日本の業者たちで混雑し始めたのもこの時期でした。(安藤慎三「ベトナム特需」三一新書1967)日本で枯葉剤245Tが農薬登録されたのも、ケネディ暗殺後の1964年9月でした。

--------------------------------------
■憲法9条が、日本軍による直接殺傷をゆるさなかったことの意味はおおきい。韓国とちがってベトナム戦争に参戦しなかったことはもちろん、朝鮮戦争で直接てをよごすこともさけられた。■以前ものべたとおり、戦後日本のわかものの殺人・性暴力などが激減していった基盤ともいるだろう。
■しかし、日本は軍隊がひとをころさない、被爆体験をもとにした平和国家とむねをはれるか? ■そうではなかろう。アメリカ軍の「後方」と機能する自衛隊=日本軍と、米軍・日本軍の需要をあてにするおびただしい企業群と家族がつねに実在した、偽装平和国家というほかあるまい。沖縄駐留軍ひとつとっても、日本人の欺瞞は、悪質だ。

■アメリカは史上最大・最悪の戦争国家であり、日本はその第二工場である。
■そうかんがえると、1940年戦艦武蔵を進水させたのが三菱重工業 長崎造船所であり、その企業城下町が長崎市であることの意味はちいさくない。■最後の被爆地となるかもしれない、この象徴的な街は、おおくの自衛艦を建造した日本の中核的な軍需工業都市でもある。■核兵器に反対する市民の街が、核兵器をもちかねない軍隊の軍艦をたくさんうみだしているという皮肉は、世界中からとわれても、しかたがない現実である。長崎市長が歴代どんなに清廉潔白な人士でしめられていようと、その選挙戦で、軍需工場があることに正面きって批判し、平和の街になじまないといったセリフをはいたことがあるだろうか? 巨額の所得税・住民税をもたらし(法人税はしらないが)、おそらく莫大な消費をささえている三菱重工業とすそのの企業群の存在を否定することが、市長候補として到底できるとはおもえない。
■無論、平和運動をになっている市民には、釈迦に説法だろうが…。

■こういった指摘は、なにもおおくの長崎市民に共有されている平和運動の質にケチをつける意図からしているのではない。■むしろ、長崎市のオキナワとの共通性に着眼すべきだといいたいのである。共通性とは、双方の地の軍事関係者が、被害者の体験のカサブタをかきむしるようなかたちで、活動をつづけているということだ。おそらく、雇用不安というよわみに徹底的につけこむことで。■三菱関連の企業群が総撤退したら、おそらく長崎市は深刻な財政危機におちいり、また大量の失業者がでるだろう。三菱重工業の景気は、長崎市の命運をにぎっているはず。■一方、オキナワの駐留米軍が総撤退したら、跡地利用が軌道にのるまで、大量の失業者がでて、しばらくは県外へのでかせがが、いま以上の大量発生するだろう。■原発同様、地域の経済的窮状に徹底的につけこんで、大資本と米軍は地域支配をつづける。かれらは、「地域に巨大な雇用を提供している」と豪語するだろう。「いつづけることは、地域のためだ」とね。
■しかし、長崎・オキナワ両地域は、太平洋戦争という悲惨な経験をひきずっていきている高齢者が存命なのだ。その記憶のカサブタを日々かきむしるような軍事関連事業が展開されているという精神的暴力について、赴任した幹部たちは自覚がないんだろうか?

広島市の企業が、いかにも軍需ではない点もつけくわえておこう
三菱重工業広島製作所の製品は、充分軍事転用かのうなものばかりだし、隣接する呉市の、IHI中国化薬などは、軍需産業に分類されているがね〕。