■この映画『夕凪の街 桜の国』について パンフレットはともかく、絶賛にちかい論評をかきつらねてきた。一部、酷評に対して弁護さえした(笑)。■しかし、ハラナ個人は、この映画に満点をつけたいわけではない。

前々回かいたとおり、この映画にかぎらず原作も、表層レベルでの主人公はヒロインふたりだが、深層レベルでは、皆実の おとうと=七波のちちである、旭である。■かれの、七波につらなる2代の女性たち4人(+カゲがうすい父親)の無念を一身にせおった宿命の半生こそ、「物語」の骨子をくみたてている。■にもかかわらず、この映画は、エンタテイメントとしてヒロインをうつくしくえがく戦略もあってか、旭という人物の造形に失敗しているようにおもえる。
■失敗の最大要因は、役者に堺正章氏をあてたことだとおもう。■パンフレットによれば、この配役は監督の発案ではなく、プロデューサーからの提案だったらしいが、ドラマ「ちゅらさん」の古波蔵恵文(ヒロイン「恵里」の父役)と同様、ミスキャストだろう。
■原作では、七波に退職してボケたかとうたがわれるような、不審な行動をとるのは事実なのだが、映画にあるような、わざとらしく わざわざ みつかるような そぶりは、みせない。■もともと 不審におもった七波が直感的に異変を感じて追跡、駅で東子とばったりでくわす(東子は凪生とあうかどうか まよいつつ、七波・凪生らの家の最寄り駅まできていたのだが)ときに、尾行を決断するのだが、実は、家から駅、高速バス(ニューブリーズ号らしい)への乗車といい、不審者そのものである。■これらは、一応、駅で公衆電話をおえたあとに手帳をわすれるなど、広島行きでアタマが一杯でという設定らしいのだが、これは、コメディアン堺正章というキャラにあわせた、コミカルな不器用さという人物造形の不自然さとしか、うつらない。■いくら、「夕凪の街」のトーンから一転してコメディとしての「桜の国」になるとはいえ、わらいをとろうという演技が、ハナにつくというより、あまりにクサいのである。
■ちなみに 原作では、お墓にそなえるモモを調達しようと少々不審なうごきをみせる旭ではあるが、あわてている様子などミジンもない。自転車にのるどころかカバーをかけ(というか、自転車のカバーのした=カゴのなかに、旅行用のデイパックがかくされていた)、徒歩で駅にむかうし、手帳などをわすれそうなるなど、混乱をきたしている描写などない。■いくら、原作者が映画になった時点で別物。とらわれずにつくってもらえてうれしいとはいえ、やりすぎだ。

■もし、後編にあたる「桜の国」が失敗作だとしたら、「夕凪の街」とのコントラストというよりも、おさえた演技ができない堺正章という配役をえらんだキャスティング、ないし脚本による人物造形で、そのキャラにブレーキをかけなかった監督や脚本家などの集団責任だとおもう。■映画のしろうとにいわれて、この文章を関係者がめにしたら、ムッとするだろうが、あえて私見として直言しておこう。■前編である「夕凪の街」は、なみだをみせずに、ひたすら悲劇をおさえめに演出した。だからこそ、うつくしく、そして逆説的にかなしみが、じんわりくる。■そういった構成からすれば、一貫性をとるためには、当然、わらいをムリにとろうとなどせず、微笑や苦笑をひきだすような、おさえめの演出が自然だったはずだ。■それは、リアリズムうんぬんの問題ではない。バランスの問題だ。
■原作では、最後に旭と七波がかたりあうシーンも、少々コミカルではあっても、全体のトーンはおさめだ。■唯一「凪生よかお前が心配だよ。二十八にもなって週末に予定もない…(ククク)」と、メガネのしたにハンカチをさしこんで、なみだをぬぐうシーンが、わざとらしくコミカルか?(笑)

■その意味では、原作にはない、?広島カープのピッチャーをまねて、イシで水切りをくりかえす旭と打越のシーンとか、?広島平和記念資料館の展示物に気分がわるくなった東子を介抱するために七波がはいったラブホテルで、ふたりが入浴するシーンとか(=『Diamonds』(ダイアモンド)を熱唱する〈健康なわかい女性〉の うなじや肩などは、「夕凪の街」の銭湯で描写される、被爆した女性たちのケロイドのせなかと対比されている)、?七波が いまはなき原爆スラムの跡地をおとずれながら、「夕凪の街」をイメージ上で追体験する幻想シーンなどの効果的挿入とは、異質なもので、原作のよさをそこねるものだとおもう。


●「夕凪の街 桜の国」『シネクリシェ』

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「週刊沖縄ふぁん」 第129号
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