■「「情報統制があろうと、だまされる連中は自己責任をおうしかない」論」、およびその前段にあたる「権力犯罪や植民地支配などの清算とはなにか」の補足の議論。

■秀逸な書評を連載しつづける『書評日記  パペッティア通信』から「靖国右翼は、自分が卑怯者の子孫であることの夢をみるか 山室 建徳 『軍神』 中公新書 (新刊)」の一部を転載。


▼     「八月ジャーナリズム」の時期がやってきた。 この時期になると、テレビでは、それまで見向きもしていない、「ヒロシマ・ナガサキ」を語りだす。 そして、「ヤスクニ」参拝の是非を問う。 八月は、出版メディアのかき入れ時なのか、本屋にも戦争本が並ぶ。


▼     この本も、そんな1冊、のはずだった。 


▼     しかし、その読後感は、これまでどの本でも体験したことのない、奇妙な、類例のないものであった。 もし、少しでも興味があるのなら、このブログを読むのをやめて本屋に行って欲しい。 この本は、内容そのものではなく、あなたに与える読後感にこそ、価値があるように感じるからである。 その苦い味わいをここで知ってしまうには、あまりにも惜しい。


▼     もう一度、訪ねたい。 これ以降、このブログを読んでいる皆さんは、最初から、読む気のない人なのですね?


▼     さて、本題に入ろう。 この本では、「日中戦争」「太平洋戦争」とは呼ばない。 当時の呼称にこだわりたい、という。 「支那事変」「大東亜戦争」……こういう用語を使うと、ともすれば右翼、と思われがちだ。


▼     しかも、著者の「軍神論」自体、実にたわいのないものである。 なにせ、日本近代史上最初の軍神は、「廣瀬武夫中佐」「橘周太少佐」。 第2章「乃木希典」。 第3章が「軍神にならなかった軍神」としての爆弾三勇士。 第4章が、日中戦争・大東亜戦争の軍神たち ――― 杉本中佐、西住戦車長、山崎軍神部隊(アッツ島玉砕)、山本五十六、加藤少将(加藤隼戦闘隊)、9軍神(特殊潜行艇) ――― というようになっていて、時代をこえて、わずかな事例を比較研究をしようというものだ。 なんとも、お手軽な企画ではないか。


▼     当然、軍神論は、皮相的で、あまり面白いものではない。 軍神とは、戦争によって強まった、日本人の一体感の中で誕生した、涙に縁どられた物語であって、栄光の物語ではない。 明治時代の軍神は、豪傑偉人で誰にでもなりうるものではなかった。 それが昭和期になると、おのれの命を味方のために捨てる決断をするだけで誰でも軍神になれてしまうという。 軍神の世界にも、デモクラシーが訪れたのだろうか。 とりわけ、士卒にすぎない「爆弾三勇士」「9軍神」の物語は、エゴイズムを押し殺して任務をはたす、日本民族固有の精神の発露とされただけではなく、「武士道」になぞらえられた旧軍神に対して、「国民道」の体現者(三勇士)、とみられたという。 男子は三勇士に、女子は三勇士の母親に、「泣く」ことで感情移入させていく。 かくて爆弾三勇士は、「9軍神」をへて、特攻隊への橋渡しとなる。 結果がどうあろうと、立派に死んでいったものを悼む……
▼     むろん、上記からみても分かるように、つまらない本という訳ではない。 乃木大将の殉死は、奥さんまで殉死したことで、庶民の異様な興奮をまきおこしたらしい。 当初、軍神は、近代西洋からの直輸入である「銅像」の形態で祭られていたが、乃木以降、「神社」として祭られる動きがすすんでいく。 東郷平八郎などは、「軍神にされるなどマッピラご免」と断っていたにもかかわらず、「神社」にされてしまったらしい。 とくに、大東亜戦争期の日本軍が、西欧化の波に洗われる中で、日本固有の精神「覚悟」を守り続ける中核とされていたこと、日本的精神の担い手は農村の住人だったことなどは、なかなか興味深いものがあるだろう。


▼      とはいえ、「武士道」「理屈を超えて感動を与える出来事」などとに分かれ「自決の意味」をめぐって混乱していること、または当時の日本人が「西欧人の評価」を異様に気にしていること程度に終始していて、新しい知見に乏しい。 とくに、爆弾三勇士の銅像建立が遅々として進まなかったことについて、「エリート層は案外冷静だった」(250頁)などと、おマヌケなことを言っていて呆れてしまう。 この点は、「新聞メディアの民衆扇動」として批判する前坂俊之『太平洋戦争と新聞』(講談社文庫)でも、同じだから困ってしまう。 たんに、「爆弾三勇士=被差別部落民説」という噂が流布することによって、庶民の「爆弾三勇士熱」が冷めてしまっただけにすぎない。 前者はエリートを高く評価しすぎ。 後者は大衆の自律性を過小評価しすぎ、である。 戦前の大衆の暗部になると、妙にスルーする傾向が大きいのは、納得がいかない。 


▼     しかし……


▼     この本は、最後、「詩」によって締めくくられる。 1945年7月28日、海軍航空機に搭乗中戦死した、パイロット、林尹夫。 かれは、「1億総特攻」が叫ばれる中でも、敗戦は不可避であることを知っていた。 そして、「自己犠牲」を逃れがたい運命と思い定めながらも、この国が遠からず屈服するであろうことを予測していた。  この希有の知性の持ち主が残した詩が、本当にすばらしい。 正字体・歴史的仮名遣いに改められているが、現代仮名遣いで全文収録したい。 (注 mitleben=ともに生きる)

【全文略】



▼     わたしは、何度となく指摘してきた。 靖国神社は、国のために死ぬことの「不可能性」を隠蔽するための装置にすぎない。 靖国に集う愛国者とは、「誰かが自分の代わりに騙されて、代わりに死んでくれることをもとめる」人たちにすぎないのではないか、と。    
 

▼     しかし、その考えは甘かったかもしれない。「不可能性」は、靖国と愛国者の間だけに横たわっているのではない。 かつて、わたしたちの祖先は、醜悪にも、かれらに続くことなく、生き残った。 鬼畜と形容した米英にひざまづき、命乞いをした。 卑怯者の子孫にすぎないわれわれは、彼らを「追悼する」「カワイソウと思う」「悲しむ」「後世の戒めとする」「英霊と思う」……そんな資格さえ持ちえないのかもしれない。


▼     この詩を教えてくれただけでも、この書はすばらしい価値がある、そう思われてならない。

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■戦死者ののこした詩が、かれのおしむべき知性を遺憾なくものがたっていることは、否定しない。■しかし、割愛する。引用している、「靖国右翼は、自分が卑怯者の子孫であることの夢をみるか 山室 建徳 『軍神』 中公新書 (新刊)」か「備忘録」『塾講師のつぶやき』にあたってほしい〔後者は、2編よめる〕。
■ハラナにとっては、かれののこした詩が衝撃をあたえる性格のものではないし、いまかこうとしている文章にとって転写しなければならない必然性をみとめないので、省略する。■いまかこうとしている文章は、戦後うまれだろう書評者の批判的読書の視座と、それがもつ戦後ナショナリズムの再検討の意味との関係性である。■ちなみに、ハラナ個人は、ご覧のとおり、一年中といっていいほど、沖縄を中心に戦争責任をといつづけているし、「こうの史代『夕凪の街 桜の国』」は5月にかいた。「八月ジャーナリズム」とは対極にある(笑)。

■?ささいなことだが、「書評」とは、私的なおぼえがきでないかぎり、読者層という、あいまいな集団の消費物である。したがって、書評だけで、本文にあたらないことをもって、潜在的読者層の怠慢をせめるのは、生産的でない。■むしろ、書評だけで満足してしまう層、書評だけで「時間の関係上、優先順位おおはば下降」といった判断にたつ層が、大量にでることは、無意味でない。■もし、書評者が、あまりにきまじめに、「読書実践へのイントロ」と、みずからの営為を位置づけているなら、かんがえをあらためるべきだろう。■それは、編集者からの意向をうけた営業・広報担当者のコピーであったり、広報活動を事実上期待された(セミ)プロ的書評者の、おつとめであって、自由なアマチュアリズム的読書の精神にもとる。そういった「営業」的色彩のない書評をおこなう人物が、あくまで作品をよむ価値をたかく評価したからといって、実際の読書をしいるような文言は、充分な読書時間をいろいろな理由で確保するユトリのない各層への、有害無益な攻撃である。


■?前項との関連でいえば、ハラナ個人にとって、この本をよもうかとおもっていたまよいは、はっきり ふっきれた。あきらかに「時間があったらよんでもいいか…」「必要にせまられたら、資料的におさえておくか…」という位置づけに、確実におちた(笑)。■それはともかく、このパペッティア(春秋子)氏の書評が決定的な自己矛盾におちいっているのは、巻末の詩以外 あまり新味がない、といわんばかりの論理構成に無自覚な点だ。
山室建徳氏という近代史家に個人的興味はないが、かれのあげた「軍神」の実例と位置づけがさえないと、パペッティア(春秋子)氏がいうのなら、論理的に、巻末の詩以外は、資料集としてしか意味がないということになる。■あるいは、近代史家が、意外にこの手の政治性について キレあじがわるく、混乱をきたしているといった、反面教師として失敗学的素材としてか? 資料批判を厳密につみあげて、当時の社会現象の詳細な再現を第一人者としてやってみせているはずの実証史家が、氏のいうように、ハズしているなら、これは史学界のリクルート・養成体制の失敗=日本的知性の限界といった酷評さえ可能になる、などと。

■?そして、前項の意味するところは、京都帝大在学中に学徒動員された海軍中尉林尹夫が、「軍神」あつかいをうけなかっただろう(1945/07/28という、太平洋戦争末期)に、「軍神」という表題の一般書の巻末を象徴的にかざるという、「羊頭狗肉」を、結果的に擁護しているという矛盾だ。■この近代史家は、「軍神」現象をテーマとしておうことで、いったいなにをえがきたかったのか? 「軍神」として、その後の特攻なりの さらなる「よびみず」になったのならともかく、おそらくそういった機能を全然もちえなかった、一級の知性をおしむ構成をくんだその意図は? ■そして、その詩がかかげられているだけで、本書をよむ価値があるといいながら、その文章を、よみやすく「現代仮名遣いで全文収録」してしまうことで、ますます購買意欲をうばうだろう、この書評者の意図は? ■しかも、「もし、少しでも興味があるのなら、このブログを読むのをやめて本屋に行って欲しい。 この本は、内容そのものではなく、あなたに与える読後感にこそ、価値があるように感じるからである。 その苦い味わいをここで知ってしまうには、あまりにも惜しい。……もう一度、訪ねたい。 これ以降、このブログを読んでいる皆さんは、最初から、読む気のない人なのですね?」とせまる意図は?


■さて、この書評にたいする個人的不満は これぐらいにして、本題にはいろう。■まず書評者が「かつて、わたしたちの祖先は、醜悪にも、かれらに続くことなく、生き残った。 鬼畜と形容した米英にひざまづき、命乞いをした。 卑怯者の子孫にすぎないわれわれは、彼らを「追悼する」「カワイソウと思う」「悲しむ」「後世の戒めとする」「英霊と思う」……そんな資格さえ持ちえないのかもしれない。」とまでいいきり、「靖国右翼は、自分が卑怯者の子孫であることの夢をみるか」とつけた表題は、いかなる意味をもちうるか?■書評者がいう「われわれ」とは、一体だれをさすのだろう? 「靖国右翼」と、おそらくそこからはほどとおいだろう書評者は、「卑怯者の子孫」として、まぎれもない「連続体」なのか?

■いや、両者が「別物」だと信じる左派的な意識が独善的・自己満足的な主観にすぎないという批判はなりたつ。それはそれで正論だろう。しかし、だれがかたるかによる。■たとえば、ハラナ個人は、アメリカに対して「中国の覇権主義や野蛮な北朝鮮など、社会主義帝国が隣国にあるので、そこから、核の傘をふくめた超越的な軍事力でおまもりください」などと、たのんだおぼえはない。いや ひそかにねがったことさえない。■戦前の右翼たちとちがって、ハラナ個人は「宣教師づらをした鬼畜」の本質をアメリカの軍産複合体とその支持によるアメリカ政府にみてとる。
■内心忸怩(ジクジ)たるものがあるとすれば、「中国の覇権主義や野蛮な北朝鮮など、社会主義帝国が隣国にあるので、そこから、核の傘をふくめた超越的な軍事力でおまもりください」などとたのみこんでいるポチ政権に、一矢むくいることさえできない無力さ、そういった政権をほとんど問題視できずに追認している、おそらく列島の3分の1ぐらいはじめるだろう、そるべきハレンチな同胞に、有効な批判をくわえられずに毎日をおくっている、なさけなさだ。
■しかし、そういった自己批判はあるものの、「現代の鬼畜たるアメリカの軍産複合体」に対して、たとえば特攻のような「自爆テロ」系の反撃をくわえる道義的責任など、カケラも感じない。■特攻隊の「同期の桜」として、しにきれなかった層が、「おめおめいきのこってしまった(自分より、いきのこるべき人材が、あたらちっていった)」式の後悔の念で後半生をおくるのは、理解できなくはないが、われわれ戦後うまれ世代が、なにゆえそういったトラウマを継承する責務があるのか?
■たしかに、東京大空襲やヒロシマ・ナガサキに代表されるような無差別爆撃および人体実験をやらかしたアメリカ帝国主義は、まさに「鬼畜」の正体をあらわした。ベトナム戦争ほか、かずかぎりない蛮行を集団神経症的にやめられない連中。世界中からあこがれられながらも、同時ににくまれている自分たちという「自画像」をちゃんとえがけている層は実在しても、けっして過半数にはいたらない国情(≒「単に、圧倒的ゆたかさを、ねたまれているだけ」という、史上最大・空前のカンちがい集団が過半数をしめつづける「国民」)。■時代的制約から、そういった「世界のハナつまみ集団」を直視するまでにいかずに、単に圧迫感とプロパガンダによっぱらった当時の集団ヒステリーと比較して、われわれ戦後世代が、格段に卑劣とはおもえない。

■むしろ、戦時中の「大本営発表」をタレながす情報統制国家=総動員体制とはちがって、政府が統制しえない情報が膨大に入手できるにもかかわらず、アメリカのポチを厚顔無恥にもつづける国民。■「愛国」とは、国民の福祉向上とか、「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい」という『日本国憲法』(前文)という理念を追求することだろうに、アメリカに忠誠をつくす(フリをする)ことと同義であるかのような、異様なイデオロギーの支配。その象徴としてのオキナワへの米軍基地の集中(沖縄島・伊江島への「1000倍」の密度)こそ、はじしらずで、「ご先祖様」や「特攻隊員」の御霊にもうしわけがたたないという反米ナショナリストの激情は理解できる。「卑怯者」という語義を、以上のように解釈するなら、書評者に充分同意できる。

■ただし、それが「軍神」やら「特攻隊員」らとのむすびつける必然性があるのか、ハラナには、全然わからない。■心理学者の岸田秀氏がくりかえしのべてきたとおり、ペリー艦隊によって強制的に開港させられて以来、150年以上にわたって、近代的な「日本国民」という意識は、対米意識とともに(「陰画」として)成立・定着し、ずっと愛憎両義的な一方的心理(「かたおもい」)がある
〔アメリカはアメリカで、実験国家アメリカが、自分たちの「似姿」を、「古来」からの「伝統」をひきずる列島に「移植」可能かという「実験台」として150年間かわりがないともいえるが〕。■最近は 少々カゲリがみえるが、日本人の野球ずきは、単に戦前の学歴主義だけで説明がつかず、アメリカびいきが かならず歴史的要因としてあげられねばなるまい。戦後の「英語熱」「英会話ブーム」「入試科目としての英語」などは、戦時中の一時期をのぞいて、戦前からのアメリカびいきの延長線上にある。■よく、ファシズム期を「象徴天皇制という歴史的伝統からの、例外的逸脱」といった説明をしたがる、保守派イデオローグがいるが、それは、明治天皇という「つくられた伝統(対「一神教」イデオロギー)」の本質を意識的・無意識的にみのがした議論だ。■それより、「日本のアメリカぎらいは、戦時中の一時的逸脱だ」といったテーゼの方が、ずっと説得力がある。なにしろ、150年以前まえには、アメリカは、日本列島にとって存在しないも同然であって、アメリカに対する愛憎両義的意識は、単純に近代的現象だからね。
■つまり、戦時中、ごく短期間「鬼畜米英」とかいった、半狂乱状態でくちばしった「失言」を過大評価して、「戦時中と戦後の態度の豹変がはずかしくないのか?」式の「自己批判」は、有害無益だとおもうんだよね。

■もともと「アメリカの核の傘のもとでの、平和憲法」といった欺瞞と、「アメリカの核の傘のもとでの改憲」といった自己矛盾とは、せなかあわせだが、「特攻を美化する思想は戦後のポチ体制と矛盾をきたしている」と痛感できない保守政党の連中は、アタマがわるすぎるのか、ズルすぎるのか、どちらかだ。■もちろん、「150年間、日本国民はアメリカの愛人なんです」という「本旨」に、「正直」に回帰したのが戦後の保守政治であり、「ちょっとだけ、スネてみせるキャラを旧社会党や共産党が分担しているだけです」と、ひらきなおるなら、それなりに一貫性はあるけどね。


●「トラックバック・ピープル 安倍晋三